▼▼▼ コメ消滅 ▼▼▼

三橋貴明 著
経営科学出版
2025年5月31日
第1版第1刷発行
(374頁)
¥2,700 (税別)
令和の米騒動は、食糧危機のプロローグに過ぎない ‥‥‥。
これから起こるのは
日本人が安全安心な食べ物を作れない、
手に入れられないという
アメリカやグローバル企業によって行われる
食糧による「他国支配」だ。
人類の歴史は、強国による力を通じた侵略の繰り返し。
日本は、今、この奔流に巻き込まれようとしている。
~~~ 日本人が知らない不都合な真実 ‥‥‥
◎安全保障は防衛、食糧、エネルギー、防災、医療、物流のかけ算、どれか1つがゼロになれば全体がゼロになる
◎コメを主食としたことで日本人に身長は低くなった
◎第二次世界大戦後、オレゴンの余剰農産物を喜んで食べた日本人
◎減反政策でコメの供給能力が低下した
◎高齢化や高齢者不足で農業のノウハウが次第に継承されなくなる
◎日本のコメに「国際競争力」はない
◎日本の真の食料受給率はマイナス170%
◇◇◇ も く じ ◇◇◇
……………… まえがき
……………… 序章
第1章 侵略兵器としての食糧
‥‥‥ 万人の万人に対する闘争からの脱却
‥‥‥ 人類が生存するためには、食糧の水の確保が必要最低条件
‥‥‥ ピラミッドを建築したのは、奴隷ではなく、農閑期の農民
‥‥‥ 古墳時代の日本の高い農業生産性
‥‥‥ 地中海沿岸の小麦をめぐる争い
‥‥‥ 食糧の生産性と流通を抑えて権力の維持と強化につなげる
‥‥‥ 農耕生活に入った人類は小麦の奴隷
‥‥‥ ヨーロッパの「胃袋」を支配したロシアのエカチェりー2世
‥‥‥ 穀物輸入を禁止したイギリスの事情
‥‥‥ 自らを神格化したハンムラビ国王
‥‥‥ アイルランド大飢饉を招いたイギリス制定の穀物法
‥‥‥ ロシアに代わってヨーロッパに小麦を輸出するアメリカ
‥‥‥ 遺伝子組み換え種子にも特許を主張するモンサント
‥‥‥ 大資本による農地買収増加で崩壊したアルゼンチン農業
‥‥‥ イギリスによる植民地化で2000万人が餓死したインド
‥‥‥ 大穀倉地帯ウクライナで餓死が発生
‥‥‥ 古代ローマと帝政ロシアの共通点
‥‥‥ 世界の工業製品の半分を生産した19世紀のイギリス
第2章 コメを食べるとバカになる
‥‥‥ 高度な文明を持っていたスキタイ人
‥‥‥ 遊牧民族と農耕民族の決定的な違い
‥‥‥ 人類が農耕・牧畜を始めた真の理由
‥‥‥ 世界に類を見ない独特の縄文文明
‥‥‥ 稲作での日本の多様な食文明が終焉
‥‥‥ 日本の資本主義の始まりは弥生時代
‥‥‥ コメを「主食」としたことで日本人の身長は低くなった
‥‥‥ 第二次世界大戦後、余剰農産物の処理に悩まされたアメリカ
‥‥‥ 小麦輸出で日本の食糧安全保障に影響を及ぼすアメリカの戦略
‥‥‥ 日本の主婦をトリコにしたキッチンカープロモーション
‥‥‥ コメに変わる日本人の主食の実態
‥‥‥ タンパク質の摂取方法を見れば文明が栄えるかどうかが分かる
‥‥‥ 悲しき「食糧依存大国」ニッポン
第3章 亡国の農業政策
‥‥‥ 先進国の農業の課題は過剰生産
‥‥‥ ヨーロッパ各国が知られたくない移民問題の不都合な真実
‥‥‥ 国民国家を崩壊させるのはグローバリズムとリベラリズム
‥‥‥ 国家には農業の供給能力を維持していく義務がある
‥‥‥ 軍事力は生産力と技術力で決まる
‥‥‥ 戦場で重要なのは兵器と食糧の確保
‥‥‥ 高齢化や後継者不足で危惧される農業のノウハウの次世代への継承
‥‥‥ 日本人にしかできない優良種を生産するための徹底管理
‥‥‥ 農協や全農は本当に悪者なのか?
‥‥‥ 令和の米騒動が起きた3つの要因
‥‥‥ 日本のコメに「国際競争力」はない
‥‥‥ 食糧危機の真犯人はやはり財務省
‥‥‥ 農家に所得保障をするヨーロッパ
‥‥‥ 自助/共助/公助によって食料受給率をアップさせる試み
‥‥‥ 日本が財政破綻するのはありえない
‥‥‥ 食料自給率はマイナス170%
===== まえがき =====
このままでは、10年後の日本は「コメ」を作れなくなる。この衝撃的な事実を、どれだけの日本国民が認識しているだろうか。
本書執筆時点で、スーパーマッケットにおけるコメ価格は、5キロ4000円、1年前の2倍である。
そして、今後、コメ価格が下がることは、期待しないほうがいい。理由は、本書でつまびらかにしているが、現在のコメ価格の上昇は、正規の愚策である「減反政策」により、日本のコメ政策能力が、コメ需要を下回ってしまったことが原因で起きているためだ。
減反政策が続いた理由は、財務省の緊縮財政。緊縮財政により、農林水産省は先進国の農業には必須な農家の所得保障や価格保障といった政策に乗り出せず、半世紀も減反政策を続ける羽目になった。
歴史的に、農産物は「兵器」として利用されてきた。食料は武器なのだ。その武器を、日本国は政策の愚策により毀損することを続けてきた。
我々は、知らなければならない。食料とは、何なのか。食料を失うことが、何を意味するのか。
食糧危機は
「将来起きる」わけではない。今、我々の目の前で進行している
===== 序 章 =====
2025年1月、日本中に衝撃が走った。
キャベツ一玉、1000円が登場。キャベツと言えば「安い野菜」の代表という認識だった日本国民は、あまりにも急激な価格急騰に愕然とせざるを得なかったわけである。
無論、一玉1000円のキャベツは「最も高い価格」であったわけだが、葉物野菜が軒並み価格高騰していたのは紛れもない現実だ。
25年1月時点の食品価格動向調査(農林水産省)によると、1キロあたりの全国平均小売価格は、
・キャベツ; 453円(平均比336%)
・レタス; 993円(同238%)
・白菜; 269円(同195%)
・大根; 256円(同191%)
・ネギ; 1039円(同153%)
・トマト; 1089円(同144%)
・にんじん; 507円(同141%)
・たまねぎ; 358円(同117%)
となっていた。
キャベツは平均比で、約3.4倍。一体、何が起こったのか。
また、2024年夏に始まったコメ価格の高騰、通称「令和のコメ騒動」は、25年に入っても終わっていない。農林水産省は、24年時点では、
「新米が出れば、価格は落ち着く」
と、主張していたのだが、実際には価格は下がらなかった。
結果的に、2025年1月24日、江藤拓農林水産大臣は「備蓄米を放出する方針」を表明する事態となった。本来、備蓄米は「凶作」といった非常事態に対応するコメだが、「コメがない」状況が続いている以上、備蓄米の利用について「柔軟化」せざるを得ないという結論に至ったのである。
1月31日、農林水産省は「コメの流通は滞っている」と判断される場合に限り、「1年以内に買い戻すこと」を条件に、政府の備蓄米を販売できるようにする運用の見直しを決定した。流通不足解消が目的で、備蓄米を運用するのは、制度が開始された1995年以降、初めてである。
「令和のコメ騒動」以前、スーパーマーケットのコメ価格は5キロで2000円程度だった。それが今や、4000円
こめ卸売業からの情報によると、1俵5万円が出たとのことである。数年前まで、コメ価格は1俵1万円を割っていた。
もちろん、1俵5万円のコメとはいわゆる「ブランド米」だ。小売店が店頭に置いておく必要があるため、価格が急騰し、5万円に達したのだ。
1977年に始まったデフレーションの下で、日本は食品価格が「安い国」であることに国民が慣れきっていた。思い込みにすぎなかったわけだが。
日本国民の勝手な思い込みは、わずか1年で崩壊した。一体、何が起きているのだろうか。
カロリーベースの自給率は38%
筆者は食料やエネルギーの「安全」の崩壊は、
「突然、食料やエネルギーの供給が途絶する」
形で「起きない」と繰り返し発言してきた。
安全の崩壊は、まずは、
「価格の高騰」
から始まるのである。
現在の日本の食料受給率は、カロリーベースでわずか38%。
我々が食料から獲得するエネルギーのうち、すでに72%が「外国産」だ。もともと、日本の食料受給率は70%を超えていたが、そのあとひたすら下落していった。
農林水産省は、長年、
「食料受給率を引き上げる」
との目標を掲げていた。とはいえ、現実には食料受給率がまったく改善しなかった。ただただ、ひたすら下落を続けた。
それどころか、2024年に四半世紀ぶりに農業の憲法とでも言うべき食料・農業・農業基本法が改定された際に、政府の当初案からは「食料受給率」という文言そのものが消えていた。
その後、「食糧需給向上」という文言が加わったものの、受給率向上の数値目標も、そのための具体的な手段も、一切含まれていない。ただ、言葉として「食料受給率向上」という言葉が載っているだけである。
政府や政治家が真剣に国民の「食料の量」について考えているならば、具体的な受給率の数値目標と、手段、そして予算が欠かせない。ところが、現実には何一つないのである。
ちなみに、農林水産省はカロリーベース受給率と同時に、生産額ベースの受給率を公表している。とはいえ、現在の日本国にとって、生産額ベースの受給率は意味がない。何しろ、「カネ」は食えない。
カロリーベース受給率とは、何だろうか。
例えば、読者が、チキンナゲットを食するとき、「何」を食べているのだろうか。
「いや、それはもちろん、鶏だ」
と思ったかもしれない。
我々が鶏肉から200キロカロリーを獲得したとき、実は穀物1400キロカロリーを消費しているも同然であることをご存じだろうか。理由は、鶏を成長させるために、大量の穀物を餌として使っているためだ。
ちなみに、200キロカロリー分の牛肉を生産するためには、穀物3850キロカロリーが必要だ。豚肉は200キロカロリーならば、穀物2450キロカロリー。
実は、チキンナゲットを食べたとき、我々は鶏肉の向こう側にある膨大な穀物を消費しているのである。畜産物を育てるため「餌」は、穀物や大豆の絞りかすなどから製造された「配合飼料」である。配合飼料の原材料は、その多くがアメリカ産のトウモロコシである。
直近で、日本はアメリカから年1000万トンを超えるトウモロコシを輸入している。日本国内のコメの需要が700万トンであるから、どれだけ膨大なトウモロコシを受け入れているか分かるだろう。
アメリカ産トウモロコシは配合飼料に加工され、畜産物のエサとして使われている。トウモロコシを食べて成長した畜産物を、我々は口にする。つまりは、外国産の配合飼料の原料が日本に入ってこなかった場合、我々はチキンナゲットを食べることができなくなる。
というわけで、外国産の配合飼料で育った畜産物については「国産」として考えない。これがカロリーベースの受給率の基本なのだ。
我々の命をつなぐエネルギー、食料から得られるカロリーの受給率が38%。実のところ、「野菜の種」「鳥の雛」「肥料」などを考慮すると、日本の受給率はさらに低くなるのだが、本件については後述する。
いずれにせよ、日本国は国民の食料、厳密には食料から得られるカロリーの多くを「自国産」ではまかなえてはいない。それにもかかわらず、官僚も政治家も「低迷する食料受給率」という問題に真正面から向き合おうとしない。
結果的に、食料の「量」が不足し、価格が高騰するという「段階」に入った。次の段階は、価格の高騰を通り越し、「カネを出しても買えない」である。
日本の食の安全は、量の面で崩壊した。
食の安全と言えば、食料の「量」と同時に「質」も極めて重要だ。十分な量の食料、しかも「質的に問題がない食料」が安定的に提供されて初めて、我々は安心して生活することができる。
口にすることで人間に害を与える食料がいくら手に入ったところで、我々は生き延びることが出来ない。日本の食の安全は、「量」の面に加えて「質」の面でも危機的な状況に至っている。
「ラウンドアップ」という除草剤をご存じだろうか?
ラウンドアップは、現在はドイツの製薬会社バイエルに買収された、バイオ科学企業「モンサント社」の主力商品だ。
モンサントは2008年に「世界で最も影響力があった10社」に選ばれているほどの、巨大農業企業である。モンサント社がいかなる製品を生産しているのかといえば、強力な除草剤と遺伝子組み換えの種のパッケージだ。モンサント社は、もともとはベトナム戦争のとき「枯れ葉剤」の製造メーカーの一社として、悪名が世界に轟いた企業である。
モンサント社の除草剤ラウンドアップを農地に大量散布すると、すべての作物が枯れ果てる。そして、植物を死滅させるラウンドアップの除草パワーに耐えるよう設計されたのが、遺伝子組み換え作物なのである。具体的には、ラウンドアップに対応したバクテリアのDNAを種に挿入している。
日本の一農家あたりの耕地面積は2・27ヘクタール。それに対し、アメリカの耕地面積が何と169・6ヘクタール。モンサント社のラウンドアップを使えば、広大な土地での除草作業を省くことができる。もちろん、ラウンドアップはあらゆる植物の生長を止め、枯れさせる毒性の強い除草剤なのだが、モンサント社が生産している遺伝子組み換えの作物だけが耐性を持っている。
例えば、モンサント社の遺伝子組み換えの大豆の種をまく。当然、雑草が生えてくるわけだが、そこにラウンドアップを散布する。すると、雑草は死滅するが、大豆は影響を受けずに育つ。
ちなみに、ラウンドアップは、世界保健機関の専門組織、国際がん研究機関による調査から、「発がん性の恐れがある」と報告されている。厳密には、ラウンドアップの主成分であある「グリホサート」の発がん性が懸念されているのだ。
モンサント社は「毒性の高い除草剤」と「グリホサートに耐える遺伝子組み換え種子」により大量に作物を栽培し、アメリカ全土ヘ、さらには世界へ輸出するビジネスモデルで利益を上げている企業だ。
日本は、今のところ遺伝子組み換えの小麦を輸入していない。とはいえ、アメリカから輸入している小麦(年間約200万トン)は、乾燥のためにラウンドアップを散布したうえで収穫されている。もちろん、日本国内で小麦に乾燥目的で除草剤をまくことは禁止されている。
しかも、アメリカ産小麦はサイロに詰める際に防カビ剤の噴霧さえしている。
日本では、収穫後の農薬散布は禁止されているのだが、アメリカからの輸入小麦については野放しだ。
アメリカにおける収穫後の農薬散布を目撃した日本からの研修農家に対し、同国の農家は、「これは日本輸出用だからいいのだ」
と語ったという。
アメリカに限らず、海外では小麦の収穫前に除草剤グリホサートを散布し、枯らす、いわゆるプレハーペスト処理が恒常化している。2017年の農林水産省の調査によると、カナダ産、アメリカ産の輸入小麦からは、実に9割を超す検出率でグリサホートの残留が見つかっている。アメリカ産は検出率97%、カナダ産は何と100%だ。
一般社団法人農民連食品分析センターの2019年の調査によると、日本国内で販売されている食パンの多くからグリホサ-トが検出されている。もちろん、国産、十勝産、有機等と書かれてある食パンからは検出されていない。要するに、輸入小麦を原料として製造されたパンを食べている日本国民は、確実にグリホサートを体内に入れていることになる。しかし、継続的に。
無論、ラウンドアップは日本国内でも普通に販売されている。驚くべきことに、ラウンドアップの危険性を周知するべき存在である、農協ですら売られている。
もっとも、日本の農家もグリホサートを使用しているわけだが、農産物に散布しているわけではない。当たり前だが、小麦の収穫前に、ラウンドアップで枯らすといった手法も用いていない。
日本の小麦の自給率は、農林水産省「令和六年度 麦の需要に関する見通し(2018年~2022年平均)」によると16%にすぎない。輸入分の48%がアメリカ産。カナダ産が35%、残り16%はオーストラリアだ。日本国産とオーストラリア産以外の小麦製品を食した場合、我々はグリホサートを体内に入れざるをえない。
グリホサートは現在、世界的に規制が強化されていっている。グリホサートの規制に乗り出した国は、すでにアルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、ベルギー、カナダ、デンマーク、イギリス、クルセンブルク、バミューダ、マルタ、オランダ、ポルトガル、スコットランド、スロベニア、スペイン、スイス、インドなど多岐にわたる。本家本元のアメリカにおいても、2023年に消費者向けの販売が停止された。
1990年代に崩壊した食の安全
世界がグリホサートの使用禁止に向かっている中、日本は2017年、逆に規制緩和に動いた。
図2のとおり、2017年の日本政府は小麦からのグリホサート摂取限界値そ6倍へと緩和した。なぜ、世界各国が禁止に向けて動いている状況にありながら、グリホサートの残留基準を緩和しなければならないのか。アメリカの特定企業の「ビジネス上の都合」であるとしか考えられない。
図2 2017年のグリホサートの規制緩和( ppm )

モンサント社を買収したバイエル社は、2021年、アメリカの市場における家庭用芝・園芸市場での、主力除草剤グリホサート(※ラウンドアップ)の販売を、2023年に終了すると発表。背景としては、アメリカにおける訴訟リスク対応と説明している。
ラウンドアップ問題は、アメリカで大規模訴訟に発展し、2018年にモンサント社を買収したバイエル社にとっては、巨大な訴訟損害リスクとなっていたのである。2020年6月に、実に12・5万件の訴訟案件のうち、 75%をカバーする法定係争において、総額100.5億ドル(約1兆700億円)から108・5億ドル(約1兆1600億円)の和解金支払いで合意したものの、それでも訴訟案件が残っているありさまだった。
アメリカで10万件を超える訴訟を起こされたラウンドアップ。現在も、日本国内においては普通に「強力な除草剤」として販売されている。もちろん、ラウンドアップやグリホサートが「確実に人体に害を与える」と判断する気はない。
とはいえ、害を与える可能性がある時点で、使用禁止するべきだろう。何しろ、グリホサートが人体に害を与えた場合、取り返しが付かない可能性があるのだ。ビジネスより「国民の安全」を優先するのは、当然の話ではないのか?
言いたくないが、旧モンサント社のラウンドアップが各国で販売が困難になり、結果的に、
「ラスト・フロンティア(最後の辺境)」
として日本が選ばれたという話ではないのか。つまりは「日本が『ゴミ捨て場』にされてしまっているのでは?」という懸念を捨てきれないのだ。
何しろ、2017年に日本がグリホサートの規制緩和に動く必然性は何もなかったのである。日本国民のおおくは、
「日本国内で売られている食品は安全。外国で売られている食品は危険」といった思い込みをしている。 その思い込みが適用したのは1980年代までの話である。1990年代以降、日本はアメリカを中心としたグローバルな農業ビジネスの要求を受け入れ、食の安全を自ら突き崩すことを続けてきた。人口1億2千万人という「胃袋の市場」を、他国(特にアメリカ)に献上することを繰り返してきたのである。 農業ビジネスで消費者の都合を無視して「儲ける」のは簡単だ。
相手国の食の安全保障を無視して、市場を開拓し、自国の農産物を売り込めばいい。その際に、食品の安全性を無視すればするほど、儲かる。政府の規制を緩和させ、余計なコストをかけさせない。ビジネス的には最高の環境だ。
日本の食料受給率は、カロリーベースでわずか38%。加えて、危険な可能性がある物質についても規制無しで輸入させる。そのためには、国民に「食料安全保障」といった余計なことを考えさせなければいい。メディアをコントロールし、
「今、自分たちがどれほど危険なのか」
を意識させない。不安がなければ、食料安全保障について国民は考えない。国民が考えなければ、政治が動かない。政治が動かなければ、特定の企業のビジネス目的の「食の安全保障」への侵略は続く。
まさに、今の日本国、さらには日本国民の姿すのものではないのか?
もっとも、安全保障を無視した日本国民の胃袋の外国への解放は、別に今に始まった話ではない。始まりは1945年8月15日だ。
安全保障は防衛だけに限らない
ところで、安全保障とは、国民が生存のために必要な財やサービスの提供を、国家が保障するという考え方になる。安全保障が崩壊した国において、国民は生存のために過剰な負担を強いられる羽目になる。 筆者は2015年9月に刊行した『亡国の農協改革』において、
「安全保障はかけ算である」
と解説した。
日本国民は、安全保障と聞くと、ほとんど反射的に「防衛安全保障」を思い浮かべる。
中華人民共和国が軍事を強化し、台湾有事、あるいは尖閣諸島の危機が差し迫っている以上、当然である。
もっとも、安全保障とは防衛に限った話ではない。
食料安全保障。エネルギー安全保障。防災安全保障。医療安全保障。物流安全保障など、安全保障は多岐にわたる。
また、安全保障はかけ算。1つでも「ゼロ」になってしまうと、全体がゼロになってしまうのだ。
考えてみれば、当たり前の話である。
例えば、日本の特定地域で膨大な食料が収穫できなくなったとしよう。とはいえ、農地に食料を消費地に運ぶことができなければ、途端に多くの国民が飢える。
さらには、生産者(農家)と消費者との間には、膨大なバリューチエーン(価値の連鎖)が存在し、多くの国民が働いている。バリューチエーンの一カ所が途切れるだけで、やはり国民は飢える。
分かりやすい例を出すと、日本国内の製粉業者が、何らかの理由で活動停止になると、我々はパンもパスタもラーメンも食べられなくなる。何しろ、小麦粉の生産が出来ないわけだ。アメリカなど外国から小麦を輸入されたとしても、製粉できないとなると、我々日本国民の多くはどうにもできない。小麦を小麦粉にする技術を自前で持ち合わせている日本国民など、ほぼゼロに近いだろう。
加工の問題に加え、地域性も考慮しなければならない。
北海道の食料受給率は、実に223%、とてつもなく高い。今後、温暖化が進行すると、北海道ではますます農業生産が増えていくことになるだろう。
となれば、「本州、四国、九州などで大震災が起きた際に、北海道の食料を運び込み、被災者を救う」
といった防災対策を誰でも思いつく。
残念なことに、北海道から自動車(大型トラックなど)で本州以南に食料を持ち込む手段がない。北海道に膨大な食料の備蓄があったとしても、有事の際、車両を食料で満載にした大型トラックは、函館から青函連絡船のフェリーに乗り、対岸に渡らなければならないのだ。つまりは、津軽海峡がボトルネックになる。
ボトルネックとは、瓶の「細くなっている部分」である。どれだけ北海道で大量の食料が生産されたとしても、津軽海峡というボトルネックがある以上、本州に運び込める食料は限定されてしまう。
ならばどうすればよいのか。
津軽海峡を渡る高速道路橋を建設するのだ。無論、青函トンネルを新たに掘ってもよい。いずれにせよ、北海道と本州を「道路」でつなぐことは、食料安全保障のみならず、本州以南の防災安全保障の問題でもある。さらには、物流安全保障もかかわっている。必要な財、サービスを、必要な場所に送れない。それでは、安産保障が成り立つはずがない。
例えば、必要な財が生産されていない。食料安全保障の場合は、農業の問題。
必要な財を、必要な場所に送ることが出来ない。物流安全保障に欠陥がある。
食料を運ぶトラックや人員がいるにもかかわらず、道路がないために運べない。
防災安全保障の問題だ。
物流安全保障を担うのは、運送業者であり、トラックを運転するドライバーであり、さらには車両の燃料を提供するガソリンスタンドだ。ガソリンスタンド一つとっても、まずはガソリンを供給する施設、そこで働く従業員、スタンドにガソリンを運び込むタンクローリー、タンクローリーを運転するドライバー、タンクローリーを製造した自動車企業、タンクローリーが走る道路を舗装した建設業者、アスファルトの原料(原油)を日本に運び込んだ海運事業者、海運事業者が利用するタンカーを建設した造船事業者、造船事業者が使用するタンカーを建造するために必要な原材料を運ぶ事業者、原材料を運ぶ事業者が使用する船舶を建造する事業者、その事業者が必要な原材料を運ぶ事業者、その事業者が使う船を建造する事業者、各船舶が使用する鉱物性燃料を運ぶ事業者等々が必要になる。
我々消費者が「食料を手に入れる」ために、生産者と消費者との間に膨大な生産活動が存在している。我々は一次産品の生産者から消費者に至るまでの間に、膨大に存在しているバリューチェーンの別の生産者により、生かされている。
日本国民がスーパーマーケットに行き、肉を買う。
我々は、
「スーパーマーケットで肉を買っている」
としか認識しないが、現実には、
1.食肉を生産した食肉業者
2.畜産物を加工工場に運ぶ事業者
3.畜産物を加工する食肉加工業者
4.生産された食肉を適切な管理の下で消費地に運ぶ運送業者
5.運ばれてきた食肉を、適切な管理の下で販売する小売業者
6.各段階の運送業者が使う道路を建設した土木・建設業者
7.運送業が使うトラックを製造した自動車製造業
8.運送業が使った道路のアスファルトを製造した企業
9.アスファルトの原料である原油を輸入した海運業者
10.海運業が使用したタンカーを製造した造船業者
12.1から11までの各業者で使用された電気を生産した電気事業者
13.電気事業者が発電の際に使用した鉱物性燃料を輸入した事業者
14.発電から配電までの電力ネットワークを建設した建設事業者
15.鉱物性燃料を運び込むための海運事業者
16.海運事業者が使用するLNGタンカーを建造した造船業者
17.LNGの出荷基地、受け入れ基地を建設した建設事業者
18.天然ガスを液化天然ガス(マイナス162度)に冷却する施設を建設した事業者
19.液化された天然ガスを「ガス」に戻す施設を建設した事業者
等々、空恐ろしいほど多種多様な産業、国民が生産活動に従事しない限り、我々がスーパーマーケットで「肉を買う」ことは出来ない。「肉を買う」だけ(※これのみではない)のために、すざましいばかりの「他者」の生産が必要になる。
我々がスーパーマケットで食肉を買えることは、普通と考えてはいけない。新鮮な肉を小売店で買えるという事実は、過去の日本国民の投資による各バリューチェーンにおける投資と、現在の生産者の労働の成果なのである。
スーパーマケットやコンビニエンスストアに代表される小売業に赴けば、必要な財やサービスを買える。これは「普通のこと」ではない。過去の日本国民が投資し、財やサービスが国民の需要を満たすことを目指し、供給能力を高めるべく努力を続けてきた結果なのである。
我々は、過去の先人の投資に「甘えている」。間違いなく「甘えている」。
我々が先人の成果(投資)に甘え、現代において将来のための投資を縮小している。結果的に、将来世代が我々を恨むことになるだろう。
なぜ、自分たちのために投資をしてくれなかったのか、と。
誰もが、自分のことしか考えない「今だけ、カネだけ、自分だけ」の社会から脱却しよう。自分の生存に必要な財やサービスをいかに手に入れることが可能なのか。真剣に考えてみよう。
平時でも有事でもインフラは重要
読者が、無人島に漂着した。手元には、何もない。
普通に、死ぬ。生存のために必要な財やサービスを手に入れることが出来ない。生き残りたいならば、石を割るしかない。
自然の中でゼロから人間が生き延びるには、まずは石を割り、石器で枝を削り、弓切り式火おこし器を自作しなければならない。煮炊きの火を確保すると同時に、木炭を手に入れるためである。
さらに石器で木の皮を剥ぎ、樹皮をなめし、草や弦で組み立て、容器を作り出し、小石、木炭、砂を順番に入れ、濾過装置を作成しなければならない。あるいは、煮沸消毒を可能にする必要がある。さもなければ、「安全な水」が飲めないという理由だけで、人間は簡単に死んでしまう。
安定的に「安全な食料」「安全な水」を手に入れるためには、文字通り、「安全な食料や水を安定的に手に入れる構造」
を構築するしかない。それが共同体だ。
我々人類は、生き延びるために「必要な財やサービス」を獲得するための構造を構築するべく、試行錯誤を続けてきた。多くのチャレンジが失敗に終わり、最終的に残ったのが、
「人類が共同体を構築し、協業し、互いに協力することで必要な財やザービスを獲得する」
スタイルある。単体である人類が協働することで、互いの安全保障を構築す構造が生まれた。誰かが誰かの必要とする財やサービスを生産することで、初めて安全保障が成立する。
落ち着いて考えてみれば、誰にでも理解出来るはずだ。各安全保障は、つながっている。膨大な食料を生産出来たとしても、インフラストラクチャーが整備されていないという「だけ」の理由で、「必要な場所」に届けることが出来ず、国民の命は失われてしまう。
物流といえば、道路とトラック(運送業者)という印象になってしまうが、バリューチエーンにかかわっている各企業、さらにはそこで働く従業員も「物流安全保障」の一部をなしている。生産地では十分な食料が生産されている。道路も整備されており、遅滞なく食料を需要がある地域に運ぶことができる。その時点で、ようやく食料安全保障が成立することになる。
あるいは、戦争を想像してみるといい。
戦争とは、兵士を動員すれば済むという話ではない。彼らの食料、水、兵器、衣服、靴、ヘルメット、たばこ、酒、石鹸、カミソリ、缶切り、糸、針、その他各種の日用品、それらを運ぶ運搬車両、鉄道、殺傷力の高い武器を運ぶ車両、医療サービス、洗濯サービス、慰安サービス、司令部と前線をつなぐ通信網と、通信を実現する通信機器、送電線などなど、軍隊が動く際には膨大なロジスティックが必要で、しかも銃後で兵器が生産されなければ、運ぶ以前に戦いようがない。
軍隊の運用とは、実は我々の生活そのものだ。膨大な兵士を「生活」させ、「攻撃」という「生産活動」に従事させる。当たりまえだが、「生活」が成り立たない状況で「生産活動」はできない。
筆者はキャンプが趣味の一つである。ソロキャンプは、実に楽だ。何しろ、自分の「需要」のみを意識すればいい。
無論、一人であっても必要な財、サービスは膨大になる。宿泊するテント、フライ、タープ、テーブル、椅子、ランタン、ガスバーナー、食器、コッヘル、焚火台、マキ、燃料(ガス、石油など)、食材、調味料、各種資材を運ぶ自動車、自動車を動かすガソリンなどなど、一日生き延びるだけで、必要な財、サービスは膨大になる。
自分一人分を用意するならともかく、各資材の需要を必要とする人々が増えれば、必要なリソースは指数関数的に増えていくことになってしまう。キャンプに行く人間が10人になった時点でお手上げだ。筆者は「一人で対応する」ことを諦める。他の人員のリソースを借りない限り、対応することは出来ない。つまりは、キャンプに参加する人々の需要を満たすことはできない。
しかも、前記は、「特に何事もなかった」
という平時を前提にしている。平時であれば、キャンプに参加する人数が確定すれば、さまざまな人々の手助けを借りながら、何とか需要を満たす供給能力の確保が出来ないことはない。平時であれば。何事もなければ。
とはいえ平時を前提にするのは「安全保障」ではない。いかなる非常事態が発生したとしても、国民の財やサービスの需要を満たす体制を構築することこそが、安全保障なのである。他に、定義はない。
食材は人間の生存・生殖に必要な財
そもそも、経済とは何のために存在しているのか。ビジネスで儲けるため? とんでもない。
我々人間の究極的な問題は何なのか? カネ儲けか? 違う。
我々の生命体としての目的は。というよりも、人間に限らず、生命体としての目的は、生存と生殖。つまりは、生きて、子孫を残す。
生存するためには、必要な栄養分(カロリー)を確実に摂取しなければならない。生殖のためには、つがいを生き延びさせる環境を整え、やはり日々、必要なカロリーを確保しなけらばならない。
当たり前すぎるほど、当たり前の話だ。
自ら生存するための、さらには「つがい」を生き延びさせるためのカロリーを摂取する。そのために、どうしたらいいのか?
結局のところ、他者に頼るしか無い。厳密には、同じ目的を持った「人間」が協働し目的達成のため動くのだ。本書で言えば生産活動に従事する「自分以外の人間」の生産に依存しなければ、我々は生き延びることはできない。生殖もできない。
昨今、食料の安全性が疑問視され、特定の地域に人々が集住し、
「自分たちは安全な食べ物を食べる」
といったコミュニティが流行っている。
もちろん、自分たちのコミュニティを作り、安住、安心な農産物を生産し、食することを否定する気はない。とはいえ実際には、別に独立していない。
安全、安心な食料を生産するために、コミュニティは確実に電力を消費しているはずだ。あるいはガスや水道を使っていないのか?
人間は、食料だけでは生きられない。
当たり前の話として、すべての国民は食料のみならず、電気、ガス、水道、通信、交通、物流、建設、土木、医療、介護といった、「他の国民」が生産する財やサービスなしでは生きられない。
先述のとおり、食の安全を不安視した一部の国民が、特定の地域に閉じこもり、食の自給率向上を提案する動きが起きている。別に、特定地域で食料の自給率向上を目指す活動を否定する気はないのだが、それは別に「独立」といった話ではない。というか、独立などありえない。
真の意味で「独立」を目指すのであれば、自分たちが生き延び、生殖するために必要なすべての財、サービスを自給することを目指さなければならない。
当たり前だが、他地域に存在する発電所が生産する電力を使ってはならない。ガスや水道も同様だ。水も自分たちの生存領域から「すべて」調達。道路も使ってはダメだ。それは、他の共同体(日本国)が建設してくれたインフラストラクチャーなのだから。誰かが負傷した、あるいは病気になったとしても、「自分たちの生存領域」の向こう側の医療サービスに頼るなど、言語道断である。自分たちで何とかするべきだ。
できるはずがない。
お分かりだろう。昨今の食の、特に「食の質」の問題悪化を受け、
「自分たちで、自分たちに必要な安全な食料を調達しよう。自分たちは独立する」
といった考え方は、既存の共同体に対する甘えなのである。食の安全、安心を自分たちで確保したとしても、人間が生き延びるために必要な財、サービスは、他に無限にある。
真剣に考えよう、。そもそも、経済の目的は何なのか。というよりも、経済とは何なのか。
経済の究極の目的は、 「人間が生存、生殖するために必要な財、サービスの供給を確保すること」
である。他には、何もない。
我々ホモ・サピエンスの究極的目的、目標を理解すると、
「人間の生存。試食に最も必要な財」
である食料とその生産能力こそが、それこそ「究極的」な武器になることが理解できる。何しろ、人間は食料を手に入れられなければ、死んでしまう。
だからこそ、過去の「帝国」は食料を武器にした。厳密には、「食料の生産」を武器として用いたわけだが、結果的に人類の歴史は大きく変わってしまった。人間が「食料」を必要としなければ、人類の歴史は今とは様変わりしていただろう。
とはいえ、現実に我々は食料を必要とする限り、当然ながら、食料は武器にならざるを得ない。
というわけで、まずは人類の歴史における「食料」の位置づけから話を始めよう。
食料とは生存に不可欠な財であると同時に、歴史を動かした武器でもあるのだ。