※※※ 日本国史 ※※※
―― 世界最古の国の新しい物語 ――
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| 著者 田中英道 著 | 1942年2月20日生 |
| 歴史家、美術史家、 東大文学部卒、 東北大学名誉教授、 ストラスブール大学Phd、 ローマ大学・ボローニャ大学客員教授 |
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| 上巻 2022年 3月20日 初版 第1刷発行 2022年11月30日 第7刷発行 |
下巻 2022年3月20日 初版 第1刷発行 2023年3月10日 第7刷発行 |
| 発行:育鵬社 発売:扶桑社 協力:ダイレクト出版株式会社 ¥990(上巻・下巻共通) |
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世界最古の国の 新しい物語(ヒストリー)
※ 本書は平成24年刊行の田中英道著
『日本の歴史 本当は何がすごいのか』
(育鵬社刊)をもとに、最新の歴史研究の
成果を踏まえ、大幅な加筆を行い刊行。
******* 目次 *******
日本国史・上 ―――
◇ 新版まえがき
◇ はじめに
――なぜ書名を『日本国史』にしたのか
第一章・日高見国
──縄文・弥生時代、関東にあった祭祀国家
第二章・天孫降臨
──関東から九州へ、船で渡った瓊瓊杵尊
第三章・大和時代
──神武天皇と日本の統治
第四章・飛鳥時代
──日本人の神髄「和」の思想の確立
第五章・白鴎時代
──律令国家の誕生と国家意識の確立
第六章・奈良時代
──日本の古典を成熟させた天平文化
第七章・平安時代
──貴族が極めた宮廷文化の頂点
日本国史・下 ―――
第八章・鎌倉時代
――武家政治が生み出した仏教美術
第九章・室町時代
――現代に継承される日本文化の誕生
第十章・戦国・安土桃山時代
――西洋文明との邂逅
第十一章・江戸時代
――百万人都市が育んだ庶民文化
第十二章・明治維新
――西洋文明との格闘、そして独自性の追求
第十三章・日清戦争から大東亜戦争まで
――近代化された日本の戦争
第十四章・現代に続く日本文化の財産
== 新版まえがき
この「日本国史」(上・下)を出すに当たって、最初にこの著作の「歴史」について述べることをお許し下さい。
まずこの二冊は『国文学』(学燈社)という雑誌の、平成十九年(二〇〇八年)十月号から翌年の七月号にかけて連載した原稿が最初でした。つまりきっかけが国文学の雑誌の依頼であったということです。それまでの日本の歴史が、世界でもレベルの高い芸術、文化を蔑ろにし、ただ政治と経済に終始し、貧富の差を殊更強調したものが多かったのです。戦後は、民主主義と称して、意識的に左翼のイデオロギーで書かれるのもばかりでした。
文化を階級的なものとして考え、せっかくの「源氏物語」でさえも、貴族階級のものとして軽視され、あの奈良の大仏も、民衆の熱い信仰を無視し、民衆が建設に駆り出され苦しんだ、と書かれていました。その影響を、今の保守といわれる作者の歴史本まで大きく受けて、そうだと思い込んでいるのには驚かされます。社会は階級社会ではなく、役割分担のものだ、ということを忘れているのです。彼らは天皇のために信仰のために、その労働の役割を厭わなかったのです。
さらに、この世界でもっとも独自な文化と伝統を持つ日本の歴史が、中国や朝鮮から学んだものだ、と今でも書かれています。そんなことはありません。三国の文化の質を見分ける眼を持たない歴史家は、歴史家ではありません。この三国は質が全くといって良いほど異なるのです。今は廃刊になりましたが、『國文学』という雑誌は、文学研究の雑誌だけあって、その点を十分に書かせてもらえました。
その原稿を中心に、さらに後半を書き足し、「コラム」を加えて、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』というタイトルで、平成二十四年(二○一二年)に育鵬社から出版されました。保守層に好評で、その後、扶桑社文庫にまでなりました。近頃の保守の小説家や評論家が出す「日本国史」ブームの先鞭と考えられているようです。
しかしそれまで私は「新しい歴史教科書をつくる会」の会長を務めたり、それ以後も日本国史学会を立ち上げたりして、他の教科書に蔓延る、左翼イデオロギーを批判するのを専らにしていましたが、次第に、歴史というものをできるだけ、その「歴史の現場」で考える方法に切り替えていきました。そうした態度をとると、自ずから保守的になっていく歴史家としての自分に気づくようになりました。歴史は決して否定から始まるものではないからです。こうした、歴史を肯定するという態度、その価値を見出す態度は、美術史を研究する上では当たり前のことだったのですが、それが政治史、宗教史にも役立つと考えるようになりました。
邪馬台国の不在、高天原=日高見国の事実は、実際の地を歩いて、考古学的資料を検討しないとわからないものばかりでした。日本の縄文時代の文化の再評価を行い、縄文土器・土偶の意味を見いだし、、この時代が「日本書紀」「古事記」にいう高天原=日高見国の時代であったことがわかりました。そうした記述を加えたものが、平成三十年に刊行した『日本国史』(育鵬社)だったのです。縄文時代が、真の古代史の範疇に入ってきました。
美術史研究の時期、構想していた形象学(フォルモロジー)が、実際の歴史にも役立つことを理解したのです。文献がないとわからないという風潮に対して、文字がなかった時代の長い、縄文時代から古墳時代まで、形で意味を読み取ることが肝要です。その形象を見るために、日本国史学会の会員たちと、なかなか行けない場所までバス旅行をしたり、自動車で行ったりして、議論しながら見るということができ、大変助かりました。
文献と真実と嘘が見分けられるようになったのです。そして、新しい日本国の歴史の構成を試みました。
文化批判のフランクフルト学派をはじめ、左翼思想に浸された日本の狭い歴史を、本当の日本の歴史にする試みは、この本で完成したわけではありません。この本の新たな点は、多くの埴輪にユダヤ人埴輪を見出したことを書き入れたことです。自分でいうのも変ですが、この驚くべき発見、つまり遠い、日本と全く正反対の西方の文化を持つ彼らが、どう日本に同化したか、当時、人口の九分の一をしめた彼らの子孫たちが、どのように具体的な日本国史に影響を与えたか、次の歴史はそれを書くとになりそうです、
令和四年二月一日
田中英道
*** はじめに
―― なぜ書名を「日本国史」としたのか
この本が「日本国史」と題されているのは、単に類書がみな「日本史」とあるのでそれらと区別するためでも、戦後の「国家否定」の風潮に、ことさら反対するものでもありません。日本の歴史には、最初から国家があったからと考えられるからです。
『古事記』『日本書紀』では、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)が神々として、世界のすべてをつくるのではなく、日本列島だけを誕生させたことはすでにこの国が「大八洲国」であったという認識があったからでしょう。つまり、神話ではおのずから国家があったことになります。ただこれまでは、その理由だけでは、最初から国家があったとは言いませんでした。「国」という言葉は、まだ曖昧であったからです。
日本の国は、国家として、もともと「近代」の国家イデオロギーでつくられたものではないのです。したがってそのことを重視する「マルクス主義」「近代主義」のイデオロギーは、日本の歴史には合いません。そして、その階級闘争史観では、日本社会そのものもつかむことはできないでしょう。むろん、歴史の真実を見ないで「ナショナリズム・イデオロギー」でそれを語ることも単純過ぎます。
つまりこの本が「日本国史」という題名であるのは、古墳時代の「大和国」の前に、縄文・弥生時代に「日高見国」(日本国の原義ともなる)という国家の存在が確認できるようになったからです。それが祭祀国家であったにせよ、「大和国家」へ続き、原初から日本には国家の歴史があったと考えられるようになったからです。
私は関東、東北の多くの遺跡を訪れ、特に三内丸山の遺跡に、ある成熟した村落の原型があることに感銘を受けました。さらに各地の縄文集落から発掘された、おびただしい数の土偶・土器の類を見て、これらがつくられた時代は、決して共同体のない、単なるバラバラな存在ではない、と考えました。
つまり、それらの形象の様式の一貫性が、統一性が、氏族連合であるにせよ、神道的な祭祀共同体によってつくられた、と考えざるを得なかったのです。土器・土偶が、単なる道具ではなく、同じ芸術的な形への追求が、一貫して見いだされたからです。
その後、神話、考古学、神社学の探究が始まりました。その結果は、この書の第一章、第二章に詳しく書いてあります。つまり日高見国という、神話の高天原と対応する現実の国があったと想定されるのです。それは「日本書紀」に記され、『常陸国風土記』、祝詞にも触れられていました。
多くの歴史家は、文献がなければ何も言えないし、土偶や土器のどの形を読み取るなどと言うことは、不可能だと思っています。その形態、素材についてはすでに多くの研究がされていても、その意味は、単に「精霊」などというだけで、思考を停止していました。しかし土偶の不思議な形態が、なぜ「精霊」なのでしょう。
私は文化人類学や形態学の視点から、それを、近親相姦による異形の人々が、信仰の対象となってつくられたものだ、と分析しました。その形態の例は、南米にもたくさんあるからです。
その見方が妥当性を持つのは、神話では、イザナギ、イザナミが兄弟婚だからです。そして、その子が蛭子であったことは、そのことを語っています。さらに記紀には、それ以前の神々は兄弟婚であることが語られています。神話とはいえ、かなり現実的な性の問題が語られていたのです。
土偶の形からその意味を分析する、という作業は、「文化的」な創造物が、性岩だけでなく、「歴史」そのものとも関わっていることを明らかにします。そこから継続した「歴史」自分の姿が現れるのです。土偶が各地でつくられているということは、各地に共通の家族認識があるということです。
最近、仁徳天皇陵といわれる前方後円墳の丘陵の全長が、五世紀の築造当初、少なくとも現在より約四十メートルも長い五二五メ-トルはあったことが、宮内庁の調査でわかりました。さらに巨大な古墳であったわけです。しかしなぜこうした巨大な古墳ができたか、その文化的、精神的理由を問うことはしません。「文献がない」の一言ですが、それならば、この古墳を、大仙古墳などという土地名をつけることも理由がありません、仁徳天皇陵という名前を否定する決定的な資料がない限り、そのまま呼ぶべきです。この大きさは、偉大な天皇の墳墓であったからこそ、説明出来るのです。延べ六百万人以上の人々が十五年以上もかけて造ったとされるのですから。
周知のように、この天皇陵を最大なものとして、他に全国に十六万以上の古墳があります。当時の資本、技術、そして労働力の点などから考えて、これらがどうしてこんなに造られたのでしょうか。国家としての共通の精神的な動因があったに違いありません。
なぜ法隆寺のような美しい建築、その彫刻群ができたのでしょう。聖徳太子が建立されたのがわかっているのに、その聖徳太子は不在だった。などと一部の歴史家は言っています。聖徳太子のような存在がいなければ、あのような美しい建築、彫刻は出来ません。
なぜ東大寺の大仏は巨大なのでしょう。聖武天皇、光明皇后がいらしたからです。大仏ばかりでなく、その建築、彫刻群などの素晴らしさは、この両陛下の存在のもと、国中連公磨呂という彫刻の天才がいたからです。『万葉集』のさまざまな表現から、その文化の高さを考えなければならないのです。
青丹よし 寧楽の都は 咲く花の
薫ふがごとく 今盛りなり
【奈良の都は咲く花が美しく
照り映えるように、今が真っ盛りである】
小野老 「万葉集」(巻三・三二八)
この「花」とは一体何でしょう。この歌が歌われた時代を理解するには、文化の問題を考えなけらばならないのです。
天皇の皇子であある光源氏を主人公にした紫式部の「源氏物語」には、その感覚の鋭さ、人間関係の感情の豊かさ、当時の日本文化の高い水準が感じられ、おのずと律令制によって生まれた安定した日本の姿を思い浮かべることができます。ですから時代が「平安」と呼ばれるのも理解できます。鎌倉時代になると「平家物語」に表されている激動の世界になりますが、それは決して国家が破壊されてきたのではありません。新たな鎌倉幕府による武家の日本国家が生まれたのです。
無論、日本の歴史を語るときには、常に外国との対外関係を述べなくてはなりません。歴史や国家というものは、外国の存在によって浮き彫りにされるからです。聖徳太子の時代も、北条時宗の時代も、豊臣秀吉の時代も、明治維新の時代も、それぞれ、外国の対峙する中、真の意味で、天皇の下に国家が生まれていたのです。国家を意識せずに、日本の歴史は語られないのです。
私の友人の一人に、故・坂本多加雄氏(学習院大学教授)がいます。氏は、歴史は国家の「来歴」を語るものだ、と主張されていました。
自国の歴史を語ることは、自らのアイデンティティと関わる物語を描くことです。それは、構築的であるからこそ、そのメンテナンスを必要とし、それを怠ればその姿は曖味になってしまいます。つまり自らの存在理由を明らかにする上では、当然ナショナリスティックな物語を必要とするのです。坂本氏が、日本の戦没者のための「追悼・平和祈念のための記念碑」を国の施設として建てるときに、委員会の中で断固反対し、靖国神社でなければならない、とされたのも、そうした考えがあったからでしょう。歴史的由来がないと、国民は信じないのです。
つまり、来歴のない記念碑などには、戦争で命を失われた英霊たちを祀れないのです。
靖国神社には歴史があるが、新しくつくられる「平和記念碑」には、英霊は戻れないことをよく知っておられるのです。
坂本氏は急病で若くして亡くなられましたが、氏が病身をおして、私の天平文化の歴史講義にわざわざ聞きに来てくださったのを思い出します。この『日本国史』が、氏のいう日本人の「来歴」となったかどうかは、草葉の陰の氏に聞くわけにいきませんが、この書を氏に捧げたいと思います。
最後になりましたが、前著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』(平成二十四年刊)の内容を包含しながら、大幅な加筆を行い、新しく『日本国史』として本書を刊行するにあたり、担当してくださった育鵬社編集長の大越昌宏氏に感謝いたします。
平成三十年五月十一日
田中英道