アメリカの                      
◆◆ 「オレンジ計画」と ◆◆
大正天皇


著者:鈴木荘一 著
     経営科学出版
     令和6年7月5日 第1版第6刷発行
           ¥1,980

 オレンジ計画とは、セオドア・ルーズベルト海軍次官が1897年に策定した日本征服計画のことで、甥のフランクリン・ルーズベルト大統領が1941年に発動する。
 この間、大正天皇の指示を得た大隈重信内閣が、日英同盟に基づき、アメリカの友軍として第一次世界大戦に参戦。オレンジ計画を空洞化させた。
 しかし原敬内閣・高橋是清内閣が日英同盟を破棄し、日本は国際的孤立に陥る。大正天皇の英米協調主義・皇室民主化は地下水源となり、戦後に花開く。


【著者紹介】
鈴木荘一(すずき・そういち)
●―― 昭和23年生まれ。「幕末史を見直す会」代表。
●―― 昭和46年東京大学経済学部を卒業。日本興業銀行入行。審査、産業調査、融資業務などに携わる。とくに企業審査、経済・産業調査に詳しく、的確な分析力には定評がある。平成13年日本興業銀行退職。
●―― 「現在は過去の歴史の延長線上にある」との立場から、現代政治経済と歴史の融合的な研究を進めている在野の歴史研究家でもある。
●―― 著書、論文として、『勝ち組が消した開国の真実』(かんき出版)、『日露戦争と日本人』(かんき出版)、『子供にはこんな教育を望みます』(かんき出版)共著、『わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編』(歴史春秋社)共著、『80年代の基礎産業』(筑摩書房)共著、『韓国機械工業の現状と展望』(興銀調査レポート)などがある。


=== 目 次 ===

日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇 目次

まえがき 2

第一章 太平洋の遠雷 15
日露戦争の傷跡に苦しむ日本に、アメリカは日系ハワイ移民排斥論を、
ドイツは黄禍論をぶつけて、圧迫。

日露戦争の傷跡/敗兵の困窮/日露戦争後の日米疎隔=日系ハワイ移民敗訴論の登場/ハワイ王国とアメリカ人と日本人/ハワイ王国の人口減少/ハワイ王国と日本の親善/ハワイ併合/日米相克の構図=日本人移民排斥論の背景/アメリカという難問/アメリカの原罪/謀略国家ドイツの暗躍/二重人格の国ドイツ/ドイツの都合/ドイツの野望

第二章 オレンジ計画 73
オレンジ計画はハワイ併合前年に策定された日本征服計画で、F・ルーズベルト大統領が1941年に発動。

オレンジ計画策定の背景/日露開戦七年前の1897年にセオドア・ルーズベルト海軍次官が「オレンジ計画」を策定/セオドア・ルーズベルトの実像/マハンの実像/セオドア・ルーズベルトとマハンがアメリカの海軍強化を推進/「1906年版オレンジ計画」― 日露戦争直後/サンフランシスコ日本人学童隔離問題/「1907年版オレンジ計画」とアメリカ艦隊の太平洋巡航/「1911年版オレンジ計画」― 第一次世界大戦の三年前/「1914年版オレンジ計画」― 日本人移民敗訴運動と連結/フランクリン・ルーズベルトが「1914年版オレンジ「計画」を実践的軍事計画へバージョンアップ/「オレンジ計画」は第一次世界大戦で最大矛盾に直面/日本は第一次世界大戦で日英同盟に基づき英米陣営に参加/マハンが黄禍論を梃子に日英同盟破棄を働き掛けていた/「1923年版オレンジ計画」― オレンジ計画ほぼ完成/「オレンジ計画」の休眠 ― 1924年~1933年/フランクリンルーズベルト大統領が「1936年版」オレンジ計画を策定/「オレンジ計画」への懐疑 ― 1937年~1940年/合衆国艦隊司令長官リチャードソン大将は太平洋戦争を回避しようとした/フランクリン・ルーズベルト大統領が「オレンジ計画」を断行 ― 1941年(昭和16年)

第三章 帝国国防方針 207
陸軍はロシアに備え二十五個師団を、海軍はアメリカに備えて八・八艦隊を要求。帝国国防方針に併記。

帝政ロシアの重圧/野津第四軍参謀長上原勇作少将の憂鬱/対ロシア戦備(カーキ色軍服と師団増設計画)/アメリカ軍隊(グレート・ホワイト・フリート)の来航/日本海軍の宿命(幕府海軍の創設)/アメリカ海軍の増強/日本海軍の「八・八艦隊」整備計画/「帝国国防方針」の策定/「帝国国防方針」による日本陸軍の意思統一

第四章 政党政治の開幕 235
第二次大隈内閣は、「日英同盟」に基づき第一次世界大戦へ参加し、「オレンジ計画」を空洞化させた。

日露戦争後の財政窮乏/明治政権租税構造/第一次桂内閣と日露戦争/西園寺公望の登場(第一次西園寺内閣)/桂園時代とは何だったのか?/第二次桂内閣の財政再建努力/第二次西園寺内閣と二個師団増設問題/二個師団増設問題をどう考えるか?/第三次桂内閣がようやく成立/第一次護憲運動による大正政変で第三次桂内閣が倒れる/山本権兵衛内閣が政友会と組んで海軍を増強/大隈重信の再登場(第二次大熊内閣)/第二次大隈内閣が選挙に勝利して二個師団増設案を可決/第二次大隈内閣は「統帥権」を内閣へ取り込んだ/日本海軍の完成/第二次大隈内閣は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦/第二次大隈内閣が「オレンジ計画」を封じ込める/第二次大隈内閣が日本陸海軍のトラウマを軽減させる/第二次大隈内閣が経済財政問題を一挙に解決

第五章 伊藤博文遭難と韓国併合 319
韓国併合消極論者の伊藤博文が暗殺されると、権力を握った韓国併合積極論者の山県有朋が韓国併合を断行。

韓国初代統監伊藤博文の遭難/半島の地政学 = ランドパワーとシーパワー/東学党の乱/日清戦争による朝鮮独立/独立からの逃走(三国干渉)/臥薪嘗胆/ロシア陸海軍の韓国進出/山県有朋と伊藤博文のロシア観の相違/日露開戦と第一次日韓協約/日露戦争終結と韓国の保護国化/伊藤博文の満州撤兵論/韓国併合

第六章 老害としての山県有朋 359
山県有朋の外交方針を遵奉する原敬内閣・高橋是清内閣が日英同盟を破棄し、日本は国際的孤立に陥る。

山県有朋の老残/山県有朋と原敬の愛憎/山県有朋の心象風景の原点/下関戦争という日英間の誤解/下関戦争に関する日本側の二つの見解/山県有朋の軍事外交思考/山県有朋の第二次大隈内閣に対する不満/山県有朋と加藤高明の「外交基本方針」の対立/第二次大隈内閣に対する山県有朋の理念なき反発/第二次大隈内閣に対する山形有朋の倒閣運動/寺内正毅の対中国外交の失敗/山県有朋が寺内正毅内閣の対中国外交を批判/寺内正毅内閣のシベリア出発/石井・ランシング協定/陸軍大将寺内正毅の実像/補給戦専門家としての寺内正毅/寺内正毅内閣は米騒動により退陣/山県有朋は耄碌(もうろく)しているのではないか?/原敬内閣が山県外交を継続/原敬内閣・高橋是清内閣は「シベリア出兵」から撤兵せず/高橋是清内閣がワシントン会議で日英同盟を廃棄/外務大臣内田康哉

第七章 大正天皇と山県有朋の暗闘 439

大正天皇は山県有朋との暗闘に敗れ引退・廃帝となる。大正天皇の英米協調主義と皇室民主化は、戦後に花開く。

明治天皇と山県有朋/大正天皇は皇太子の頃から山形有朋を嫌い大隈重信を信頼した/嘉仁皇太子の実像/大正天皇の即位/大正天皇は大隈重信の英米協調外交を支持/大正天皇は山県有朋に辞任を勧告/遠眼鏡事件/「宮中某重大事件」による山県有朋の失脚/大正天皇の無念

補 論 大正陸海軍の軍縮 477

大正海軍の良識/山梨軍縮/宇垣軍縮による装備近代化/配属将校の苦渋/解散部隊将校の不満/青年将校と連隊の紐帯(ちゅうたい)/ドイツ式士官教育と昭和軍国主義/昭和初期の青年将校運動とは何だったのか?/日本陸軍は太平洋戦争を「日露戦争の戦術」で戦ったか?/「それでも日本人は戦争を選んだ」のか?/東京裁判史観の呪縛(じゅばく)


あとがき 511

※※※ まえがき ※※※

 私は長い間、「歴史なんて、所詮、『戦勝者の創り話』なのだから、戦勝者が好き勝手なことを言って自己満足していればよいではないか」と、突き放して見ていた。
 その考えが変わって、「日本近代史の真実を語ろう」と決意したのは、息子ブッシュ大統領の「イラク戦争」により超大国アメリカの一極支配が揺らぎ、アメリカの「日本防衛に関する意思と能力」が減衰したように見え、日本人の「アメリカに対する敬意と信頼」が低下。堅固だった日米同盟に翳(かげ)りが生じたように見え、まずいことになったと思ったからである。
 息子ブッシュ大統領は、なぜ、イラク開戦に踏み切ったのか?
 その理由は、ネオコンと呼ばれるブレーン達からの、
「アメリカは、侵略戦争を行った『悪の帝国=戦前日本』を圧倒的武力で制圧。日本人に民主化教育を施した結果、『戦後日本』は良い国に生まれ変わりアメリカの友邦となった、とする東京裁判史観」
 に基づく進言により、「イラクも、アメリが圧倒的武力で制圧し、民主化教育を施せば、民主主義国家に生まれ変わってアメリカの友邦となるだろう」と考えたため、と私には見えた。
 私の基本的な考えは、
「日本には『大正デモクラシーという議会政治の伝統』があったから、戦後の民主化が容易だった」
 のであり、日本とイラクが違う、というものである。
 そもそもアメリカにとっての太平洋戦争とは、ペリー提督が来日した際、1853年、本国へ、
「イギリスの極東における勢力と拮抗するため、沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」
 と書き送った頃から始まる太平洋制覇構想の実現である。この構想の具体的プランは、日露戦争七年前の明治三十年、海軍次官の地位にあったセオドア・ルーズベルトが、「アメリカの太平洋制覇のため日本を完膚(かんぷ)なきまで打ちのめす、とするオレンジ計画」
 として策定。その後、四十余年かけて練り上げられ、昭和二十年、日本の無条件降伏で完結した。
 昭和二十年九月二日にミズーリ号艦上で降伏文書調印が行われたとき、マッカーサー元帥がミズーリ号艦上にペリー提督の星条旗を掲げたのは、自分がペリーの夢を実現したとの自負心だったようだ。
要するに、アメリカの本音は「オレンジ計画」。「東京裁判史観」は、敗戦に打ちひしがれていた当時の日本人を洗脳して占領政策を円滑に行うため便宜的に作られたアメリカの建前である。
 この認識は、アメリカと日本の戦中派指導層の間では、共有されていたような気がする。
 太平洋戦争のとき、ケネディ大統領は魚雷艇艇長として参戦し、日本駆逐艦「雨霧」の体当たりを受け、会場に投げ出され波間を漂流。父ブッシュ大統領は雷撃機の搭乗員として小笠原諸島付近で日本軍高射砲に撃墜され、パラシュートで脱出した。ケネディ大統領や父ブッシュ大統領の太平洋戦争観は明らかではないが、「建前としての東京裁判史観」を無条件に信じてはいなかったように思われる。
「建前」と「本音」を使い分けられないようでは、アメリカ大統領は務まらないからだ。
 しかし今や、アメリカも日本も、世代交代が進み、戦中派は去り、戦後世代の時代となった。
 同時に、日米ともに、「アメリカの本音であるオレンジ計画」は忘れ去られ、「アメリカの建前である東京裁判史観」が一人歩きするようになった。アメリカでも日本でも、学校で教えられるのは「建前の歴史」であり、「本音の歴史」が書物になることは少なく、消えゆく口伝となりがちだからである。
しかし国際政治では、建前ではなく、本音のぶつかり合いで動いている。物事は「本音」で決まるのだ。
 歴史に学ぶ、という以上、建前でなく、「本音の歴史」に学ばなければならない。
 そこで私は、太平洋戦争に関するアメリカの本音である「オレンジ計画」について語ることとした。

 今日、日本とアメリカの間にはTPP問題や、沖縄基地問題や、中国の台頭に伴うアジア軍事戦略、イラン問題など問題が山積みで、我が国は1つ1つ翻弄され場当たり的に対応している。
 しかしアメリカという国は、「オレンジ計画」に見られるように、緻密な長期戦略を立てて軍事外交に取り組む国なのである。その意味で「オレンジ計画」は過去の話ではなく、現在も、対象国と手法を様々に変えながら、生き続けているように思える。それがアメリカという国なのだ。
 私は、現在アメリカの軍事外交戦略については研究途上にあるが、本書が現代アメリカの軍事外交戦略や日米関係にご関心を持たれる方々にとって、何らかのヒントとなれば幸いである。 

※※※ あとがき ※※※

 太平洋戦争は、昭和二十年八月、惨憺たる敗戦となって終わった。
 その翌年、私の父が亡くなり……、
 私は、二年後の昭和二十三年、多くの家が空襲で消失しているなか、生を受けた。
 曽祖父井上剛一は立憲民政党の衆議院議員で浜口雄幸内閣を支えていたのだが、敗戦後は一切の公職を去り、孫たちを相手に余生を送っていた、という。その孫の一人が私の母だったのである。
 井上剛一は、時折、
 「俺は(太平洋)戦争(の開戦)を止めることは出来なかった」
 と悔やむようにつぶやいていた、という。
 私は物心ついた頃から、「俺は戦争を止めることは出来なかった」との言葉が気になるようになった。
 小学生の頃、近所のお寺で日露戦争で戦没した陸軍上等兵の墓石を見た。墓石はお寺の軒先まで届く巨大さで、最愛の息子を失ったご両親の悲嘆が感じられた。私は国家間の戦争と個人生活が密接に関連していると感じて歴史への関心を深め、先般、『日露戦争と日本人』(かんき出
版)を上梓(じょうし)した。
小学校卒業の直前、文化放送のラジオ朗読番組「帝国陸軍の最後(伊藤正徳)」を聞き終えたとき、父母から会津地方への転居を告げられた。この様子は小学校の卒業記念文集に採録されている。
 私は、会津若松での中学校生活で、
「戊辰戦争に勝った薩長新政府が自分たちに都合のよい幕末維新史を書き、太平洋戦争の戦勝国が自分たちに都合のよい日本近代史を押しつけ、私たちはそれに洗脳されているだけではないのか?歴史は、たんに「戦勝者の作り話=偽りの物語」にすぎないのではないか?」
 と思うようになった。この思いは、『勝ち組が消した開国の真実』(かんき出版)として上梓した。
 何が「真実の事実」なのか?
 それを求めて、私の「日本近代史探訪の旅」が始まったのである。
 私は歴史学会へ進もうと思った時期もあったが、右派は「戊辰戦争に勝った薩長が正しく、幕府は悪い」と主張し、左派は「太平洋戦争に勝った米英が正しく、日本は悪い」と主張。相争うように見える両者は「勝てば官軍・負ければ賊軍=戦勝者史観」の共通項にあることが分かって、失望した。
 私には、「歴史学会は『戦勝者の創り話=偽りの物語』の製造工場」としか見えなかったのである。
「真実の歴史」を求めて独学の道を歩んだ私の歴史観は、「真実の歴史」に成り得たかったか?否か?
 このたび、世に問うてみたのである。

      平成二十四年四月  鈴木荘一 

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