もしも 徳川家康      
≫ 総理大臣になったら ≪





著者:眞邊明人
発行所:株式会社 サンマーク出版

2021年3月20日 初版発行
2024年6月26日 第10刷発行
                     ¥ 1,650


これから、2020年の話をしようと思う。

2020年。東京でオリンピックが開催されるはずだった、この年。
中国武漢市を皮切りに、世界で新型コロナウイルス感染症が大流行した。
多くの国が、一時的に国民の外出や経済活動に制限をかけた。
国内外を自由に行き来することはもちろん、勝手に商店を開けることも許されなかった。
これはグローバル経済において、”成長を止める”ことを意味する。
世界中の国が同時に、このような成長を止める事例は、世界史上、初めてのことである。
社会をパンデミックから守るためには、多くの国がこうせざるをえなかった。

しかし、日本においては、420年前に一度だけ、
国の成長を意図的に止めた人物がいた。
それが、
 徳川家康である。

 江戸時代以前の戦国時代は、今のように「日本」という国の概念はなく、それぞれの領土が国であった。戦国大名は、国外を侵略し、戦をして領土を奪い取ることで富を拡大していった。織田信長は「天下布武」をスローガンに掲げ、西洋から輸入した最先端の武器、鉄砲を駆使し、領土を拡大させた。
 そして信長に死後、天下を統一した豊臣秀吉は、さらに富を拡大するために海を渡り、朝鮮に出兵する。
 戦国時代は、武士たちにとって、いわば“グローバル成長期”だった。

 ただ、家康は違った。信長、秀吉とは真逆の方法をとった。
 戦ってなんぼの戦国時代に、家康は江戸幕府をつくり、藩同士の戦いも海外での争いも禁じ、国外との貿易も制限した。
 家康は意図的に当時の“領土を拡大して成長する”ことを止めた、世界でも稀に見る異質なリーダーであった。

 結果、江戸時代は265年間も続く、太平の時代になった。
 文化遺産に認定されている歌舞伎や能、落語、浮世絵など海外からも評価が高い日本の文化の多くはこの時代に生まれ、当時の江戸は世界最大の都市だったと言われている。
(元禄時代、世界の20人に1人は日本人だったとの説もある)
江戸幕府は「バックス・トクガワーナ(太平の徳川)」と海外からも称賛されるほど日本史上最も優れた組織だったのだ。

 そんな江戸幕府の創立から420年経った2020年、世界と同様、新型コロナのパンデミックにより大きなダメージを受けた日本。
 台湾や韓国と違い、SARSやMERSを経験していない日本は、感染症の初期対応を誤り、あろうことか総理官邸でクラスターを発生させてしまう。そして、持病を抱えていた総理大臣自らが感染し、死亡。前代未聞の事態に、国内に政治に対する不信感が充満し、日本はかつて無い混乱の極みに達した。
そこで政府は、秘密裏に画策していたAIと最新ホログラム技術で偉人たちを復活させ、最強内閣を作る計画を発動させる。
 そこで選出されたのは、徳川家康、織田信長、大久保利通、豊臣秀吉、徳川綱吉、足利義満など、あらゆる時代の荒波をくぐり抜けてきた錚々たるメンバーであった。

 そして、総理大臣の補佐役である官房長官には、皮肉にも江戸幕府を終わらせた男、坂本龍馬が選ばれた。

 この物語は、徳川家康率いる最強内閣が、“コロナという予測不能な事態を収束させ、地に堕ちた政府の信頼を取り戻す”をミッションに掲げ、家康を「アンドロイドなどと交渉しない」と罵っていたアメリカ大統領から、最終的に日米首脳会談の共同会見で次のような賛辞を受けるまでを描いた物語である。

「私は心から彼を尊敬します。かつてアメリカをつくりあげた偉大な先人たち、ジョージ・ワシントン、エイブライハム・リンカーンと出会ったような気持ちです。今日は皆に私の偉大な友であり師の話を聞いてほしい。我々はこれからどう生きていくべきか。420年前の偉大な英雄から学ぼうではありませんか」


 <物語に入る前に>

この物語には、歴史や政治の用語が多数登場する。
 (歴史や政治に馴染みのない人でも楽しめるように注釈がいれてある)
しかし、決して歴史書や政治の本ではない。
歴史を、時代を変えた過去の人物たちが、
日本の未来のために、
社会を変え、
組織を変え、
自分も変えようと奔走した物語である。

歴史にも、政治にも、
無関心な日本人はいるかも知れないが、
無関係な人はいない。
この物語は、何かを変えたい人にとって、
無関心でも、
無関係でもいられないはずだ。

いや、何も変わりたくない変えたくない人にだって無関係ではない。
なぜなら、急速に変化する時代に、
変わらないでいるためには、
何かを変えないといけないからだ。


【 徳川内閣組織図 】


※※※ 徳川家康 最後の演説 ※※※

 アメリカのステイン大統領との首脳会談を終え、徳川家康首相とともに記者会見に望んだ。
記者会見の前に、家康は
 「ステイン殿」
家康はいずまいを正し、深々と頭を下げた。
「この時代をよろしくお頼み申す」
 家康の行動にステインは一瞬戸惑いを見せた。
「我ら過去の者は、未来を作ることは叶わず。今を生きる者だけが未来を作る………そうであったな坂本」
 家康は龍馬を見た。龍馬は家康の言葉に黙って頷いた。
「ステイン殿。アメリカは大国じゃ。その力も強大である。それを握る貴殿の荷の重さはいかほどのものか。
しかし、貴殿には世界に自由を与える使命がある。それはいくばくかの不自由と共にじゃ。自由と不自由、それと折り合いををつけるのが貴殿の仕事である。矛盾は人でなければ乗り越えられぬ。機械では答えは出ぬのじゃ」ステインは家康の目をじっと見た。そしてしばらく目を閉じて沈黙した。その目を見開いた時、ステインは家康にこう言った。
「ミスタートクガワ。あなたの話をもう少し聞きたい」
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 テレビ中継が始まり、ステイン大統領が演台に立ち、
「アメリカ、日本の皆さん。私は日本の徳川首相と会談し、あらためて日米同盟を強固にすることを」確認しあいました。それはとてもハッピーなことです。そしてそれと同時に私は心から、徳川首相にお詫びをしたい」 ステインはそう言うと、家康の方を見て深々を頭を下げた。
「私は彼を機械を呼び愚弄する態度を続けました。今日、誠実に彼と話をして私は自分の過ちに気づきました。」
私は心から彼を尊敬します。かつてアメリカをつくり上げた偉大な先人たち、ジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーンと出会ったような気持ちです。今日は皆に私の偉大な友であり師の話を聞いてほしい。我々はこれからどう生きて生きていくべきか。400年前の偉大な英雄から学ぼうではありませんか………」
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ステインに促され、家康は演台に立った。そして、穏やかに話し始めた。

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 ≪ 23 賢者の意思 ≫

「このような形で皆の前で話をすることはわたしの時代ではなかったことであるが、ステイン殿からせっかくの機会を頂戴したのであるから、長くなるかも知れぬが話してみたい。私は400年前の時代からここにやってきた。最初にわしが驚いたのは、この時代がわしらの想像できぬものであったことじゃ。神の国のように思えた。あらかじめわしの頭には、科学の進歩というのかの、それは入っておったが、それでも肝を潰すようなきらびやかさであった。それは、この時代の政のいい加減さじゃ。だれもが政に関われると言いながら、その実、だれも責任をとらず、耳障りのいいことを言い、人を貶め、おのれの欲だけを満たそうとする。わしらの時代は、皆、命を懸けておのれの領地を守り戦った。民や家臣の命を預かっておったからじゃ。そのために将と呼ばれる者はまさに身命を賭けて戦った。それに比べるとこのきらびやかな世界の裏側は腐敗しきっておる。わしはそれを正すことがわしの役目だと思うた。おそらく蘇った内閣の者、皆、そう思ったに違いない。わしらの頃のような時代に戻さなければならぬ。この時代は豊かであるが腐っておる。このままではいずれ滅びるに違いない。わしらがここに呼び出される原因になった流行り病など、我らの頃はもっと悲惨なものであった。そのことで大げさに騒ぎ立てるこの時代の達者を見て滑稽ですらあった。死ぬ者は死ぬ。そのことはどうしようもないことじゃ。
しかし、わしはこの時代のことをよく知るうちに違う考えを持ったのじゃ。たとえば、わしらの時代、生まれた赤子が成人するまで生きていられる者は半分にも満たなかった。ほとんどは赤子のまま死んだのじゃ。たとえ生き延びたとしても、飢餓で餓死する者も少なからずいた。流行り病にかかれば医者にかかることもできず死ぬ者は数しれず、わしが築いた幕府は、265年続き、その間、闘いもなかったが、それでもこの時代の者が当時の江戸に住めば地獄を思うであろう。確実にわしらの時代よりも優れておるのか。わしはそれを考えた。この時代を作ったすぐれた統治者がいたのか? 調べてみたが、優れた者はいたが、それでも織田殿や豊臣殿のような優れたずば抜けた英傑はおらぬ。この時代は優れたひとりの英傑がつくりあげたのではなく、様々なできごとの中で、少しずつ変化しつくられていったのじゃ。わしらの時代とて、後生に残るような英傑だけが時代をつくったのではない。英傑を補佐する者、それに仕える者、そして町で暮らす民たちが少しずつ変えることで江戸の時代がつくられていったのじゃ。
 つまりはこの時代とわしらの時代のどちらが優れているのかではなく、この時代もわしらの時代も、大きな視点でみれば同じなのだ。時代はそれぞれが分かれているわけではなく、連続しているものじゃ。わしらの時代は今でも続いておる。そしてそれはわしら以前、足利殿、北条殿、藤原殿の時代でもあるのじゃ。
 いうなれば時代とは大河である。古の時代、その川は小さな、誰の手も介さない川であったろう。そして、山々を流れ、急激な谷に流れ落ち、岩を削り、太くなってゆく。わしらの時代は激しい流れ、あたりに災害を及ぼすような川であったろう。織田殿や、豊臣殿やわしは、その川が氾濫せぬように堤をつくり、川幅を広げる努力をしたにすぎぬ。われら自身が川であったわけではない。川は川であり、誰かが生み出したものではないのだ。この川は一度、世界大戦という氾濫を防げず、一度は潰れかけた。しかし、川は潰れなかった。それは過去からの水脈が延々と続いておったからじゃ。そして今、その川は海に向かっておる。川幅は我らの頃とは比べようもなく広く、流れも穏やかじゃ。しかし、わしらの頃のように、荒治療で堤を築けるような広さではない。何年も時間をかけて、たくさんの人が引き継ぎながら堤を作っていかなければならぬ。偉大な英傑ではなく、たくさんの人が志しをもち、目的を見失わず堤を作っていかなければならぬ。そしてこの川はやがて海へとつながる。海とは、この世界のすべての国や民が穏やかに暮らせる大きな場所じゃ。ステイン殿率いるアメリカ人も大いなる川である。皆、いずれは海につながってゆくであろう。
 しかし、今、一番わしが憂えておるのは、堤をつくるのではなく川幅を無理に広げようと壊す方に夢中になってしまうことじゃ。簡単に言えば、成長という病じゃ。富を求め、急激に川幅を広げようとする。この病は流行り病より恐ろしい。無理に川幅を広げようとすれば、川は氾濫し、やがては涸れてしまう。今回の流行り病はそれをそちらたちに教えてくれたのじゃ。焦るではない。川は穏やかに流れてはいるが確実に海に向かって進んでおる。かつて豊臣殿が川幅を一気に広げようとした。いわゆる朝鮮攻めである。結果は、攻め入った朝鮮にも自国にも多大な損害を与えた。わしは、その時、あえて成長を止めた。自分も固定し、領土も固定し、他国との貿易も制限した。わしは堤をつくったのじゃ。その結果、流れは穏やかになり、265年の長きにわたって川幅は穏やかに広くなっていった。しかし人はまた同じあやまちを犯す。日本が世界と戦った際じゃ。川幅を無理に広げようとしてとんでもない災いを起こした。それはよう知っておろう。自然の災いよりも人が起こす災いの方が大きいものじゃ。
 皆、今だけを見て、流れを見ておらぬ。川の流れは我々にはどうにもならぬということを知ることじゃ。流行り病ひとつとってもすべての者を救うことはできぬ。それもまた事実じゃ。どうにもならぬ中で我々は折り合いをつけていくのじゃ。この世という川と、国という堤と、そしてそこで暮らす自分を。
世の上に立つ者が一番考えなければならぬのは、川の流れを壊さず、そして確実に川を前にすすめるために、堤を調整することじゃ。壊すのは簡単じゃが、守るのは至難の業じゃ。いっときの成功ではなく、長い時をかけすこしづつ手直ししてゆく。その覚悟が上に立つ者には求められる。上に立つ者は今ではなく、未来を見よ。そして未来を見るために過去を知れ。我ら内閣はそれを伝えに来た。今なすべきことは過去を探せば必ず見つかる。どんな難しい状況でも必ず過去に誰かがその状況に出会っておる。それを知ればおのずから、策は見つかる。
 我らをこの時代に連れてきた男、木村辰之介は、この国の政の信頼を取り戻せと言った。わしはそれを念頭に置き、働いてきた。この時代の政の綻びを我らなりに正し、新しきしくみをつくろうと思っておった。志半ばであったが、綱吉も吉宗も織田殿も豊臣殿も皆、そもしくみをつくろうと汗を流した。そのしくみこそが堤であり、われらはその堤をつくりあげるまでが役目じゃと思うておった。しかし、わしは、しくみがこの世をよくするのであろうかと思うようになった。この時代の者共は、皆、自分勝手で自堕落じゃ。その一方で活気に溢れ、争うことの愚かさも、醜さもしっておる。他人を陥れる者もあれば、それを救う者もおる。われらより、はるかの自由でおのれというものを持っておる。しくみというものは、おのれを殺し、考えさせぬものじゃ。わしは生まれ落ちた身分を固定し、自由を奪うことによりこの世の安定を図った。おまえたちはそれを封建社会というのじゃな。あの戦国の世を治めるにはそれしかなかったのじゃ。しかし、自由を求める者たちがわしのつくったしくみを打ち破った。それを成し遂げたものは、今、官房長官をつとめておる坂本龍馬を始めとする者たちじゃ。
 人は生まれながら自由であり、自由を求めるものなのであろう。かくいうわしも人質の身からおのれを自由にしたのじゃ。わしの志は、若き日は祖父や父が失った領地を取り戻すことであった。織田殿倒れしあとは、この世の乱れを治めるため豊臣家に仕えた。そして、真の平和の世をつくるため豊臣家を滅ぼし幕府をつくった。それは、自由を制限するしくみであった。わしは、おのれは自由を求め、平和のために他人には不自由を強いた。しかも、その先には誰もが自由になる平和な世があったのじゃな。この時代と出会い。わしのつくった幕府を終わらせた坂本と出会い、わしは悟った。人は自由を求めるものじゃと。それが人が人たる所衣であると。                                   
 無論、すべては自由にならぬ。人が集団で、生きていくためにはさまざまな決まりをつくらねば、またあの戦国の世のような無秩序な時代が生まれる。自由と不自由、この折り合いをつけることこそが人を率いる者に必要なことじゃ。
 人生はすべからく矛盾しており。矛盾は永遠になくならぬ。その矛盾を理解し、その矛盾を少しでも縮める。それがこの時代の上に立つ者の役目じゃ。
 こ世に生きる者は等しく愚かであるからこそ、進むのだ。この時代は確実にわれらの時代よりよくなっておる。そして、この先の時代はさらによくなるであろう。愚かであることを一人ひとりがしっかりと受け止め、愚かさを過去から学び、それを克服していく先人たちの汗を学び、未来をつくれ。この時代の発展を信じ、わしは大政奉還をすることを決めた。
 政をおまえたちの時代に返そう。
 これからの未来をつくるおまえたち一人ひとりである。
 おまえたちなら出来る。よりよき未来をつくれ」


 家康の演説は23分にわたりCMを挟まずノンストップで中継された。
 理沙はアナウンサー室で固唾を呑んで家康の演説を見守っていた。森本も他のアナウンサーも誰ひとりとして話し出すものはいなかった。飲み物を口にする者すらいなかった。家康の言葉は重く、全てを受け止められる気がしなかった。家康の政権がこのまま永遠に続くと思っていた。おそらくテレビの前で中継を見ていたほとんどの国民がそうであっただろう。

 最後に家康は龍馬の方を見て、顔の筋肉を緩めるようにして笑いこう言った。
「龍馬!!!
 これでええじゃろう。肩の荷が降りたがや。おみゃーの言う通りわしゃ話したぞ。
 もうわしもこの時代との折り合いをつけんでもええじゃろう。 はよーあの世に行って、おなごどもに肩を揉ませねば肩が凝ってしょーがねーだがや」


  24 別れ
    ………以下略………

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 エピローグ

 2021年10月20日。
 英傑たちが去り、日本の政治が再び混乱する中、新たな内閣が発足した。そしてその内閣による解散総選挙が行われた。その過程は相変わらずグダグダでああり、有権者たちや有名人たちが、好き勝手な意見を述べ、SNSでは炎上やデマや中傷が発生した。それは、一見英傑たちが復活する前と何も変わらないようであったが、選挙が行われると有権者の約90%が投票に出かけた。明らかな変化であった。
 国民一人ひとりが自分の意見を表明し、自分たちなりに矛盾に満ちた世界で、この時代に生きる者として責任を果たそうとしているようであった。
 そしてその選挙の当選者の中には、前財務省事務次官の吉田拓也もいた。彼もまた自分自身の一歩を踏み出したのであろう。

 この日、理沙は「報道ニューディズ」にメインキャスターとして出演していた。そして番組の最後をこう締めくくった。

 今日の選挙の結果がどのような未来をつくるのか、それは私にはわかりません。しかし、私たちは今日、たしかし一歩を踏み出しました。この日を始まりとして、私たち一人ひとりの川を大事に育て、大きな海に向かいましょう。きっと、何度も失敗したり愚かな判断をしてしまうこともあるでしょう。でもそのことに失望したり絶望したりするのではなく、自分自身でできることを、どんな小さなことでもいいので行いましょう。私たちの自由は、誰かの不自由の上に成り立っているのです。ならば、私たちも誰かの自由のために、少しの不自由を進んで受け入れましょう。それが私たちが私たちの時代のためにできることです。そして私たちの時代はきっといつか遠い未来の時代の助けになるのです。私たちが過去の英傑たちに救われたように。

  ーーー 完 ーーー

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  隅者は経験に学び、賢者が歴史に学ぶ。

    オットー・フォン・ビスマルク