*****  山 陽 道 の 解 説  *****

 この解説資料は、岡山県教育委員会が平成3年から平成4年に
かけて実施した岡山県歴史の道調査報告書第一集『山陽道』から
「往来の名称」と「往来の変遷」を照会します。

                       〔平成4年3月発行〕


山陽道(西国街道)の概観


1.往来の名称

 すでに指摘されているように山陽道は、古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された道で、太宰府道・筑紫大道とも呼ばれた。中世においては、官道として性格は失われたものの、一部道筋を変えつつ、陸上交通路として重要な役割を担い続けたことには変わりはない。鎌倉から南北朝期にかけて、沿道には宿とよばれる集落も形成されるようになっていた。

 その後16世紀末にいたり、宇喜多秀家の岡山城下の整備にともなって、道筋は城下に引き込まれる形でさら変化をとげる。そして池田氏があらたに入封して後は、庭瀬往来(庭瀬・鴨方を馬継所として笠岡にいたる)、津山往来(作州津山にいたる)、倉敷往来(作州倉敷にいたる)、下津井往来(備前下津井にいたる)、和気往来(備前和気にいたる)、牛窓往来(備前牛窓にいたる)など、六つの往来が城下を起点として放射線状にのびるようになっていった。「備前国・備中国筋井灘道舟路帳」(池田家文庫)では、山陽道を「大道」、上の六つの往来を「小道」、その他を「灘道」と区別している。幕藩体制下においては山陽道は脇街道であり、大阪を起点として姫路・岡山・広島・下関を経て小倉にいたるおよそ132里の道程は、「駅肝録」(『日本交通史料集成』第1輯)「五駅便覧」(同上第二輯)では中国路とされ、「和気絹」「吉備温故秘録」『備陽記』などでは山陽往還・西国街道・西国往来などと表れるが、ここでは一般的な山陽道の呼称をもちいることにする。

2.往来の変遷

 「延喜式」兵部省によれば、古代山陽道は全国七官道のうち唯一の大路となっている。総社市の備中国分寺尼寺門前の発掘で確認されたそれは有効幅員6メートルにもおよんでおり、すべての道程がこのとおりではなかったとしても、官道としての規模は推し測れよう。

 延喜式では、岡山県内の駅家は備前国の坂長(さかなが)・珂麿(かま)・高月(たかつき)・津高(つだか)・備中国の津?(つさか)・河辺(かわべ)・小田(おだ)・後月(しつき)の八駅があげられるが、平安初期には備中のあたりにさらに一駅あったことがわかっている。駅には駅馬が配され、津高駅が14疋(ひき)と異例となっているほかは、大路にみ合うかたちで、それぞれ20疋ずつが置かれていた。
 駅家は、外国使節にそなえて、山陽道諸国では天平元年(729)に本格的に瓦葺粉壁造りへと向かったとみられるが(「続日本記」巻10)、現在遺構で確認されているのは備中小田駅(小田郡矢掛町毎戸遺跡)のみである。

 播磨の国から備前国に入って西へ向かう道筋は、具体的には次の如くであった。
 まず播磨国よりは、備前国の国境をなす船坂峠を越え、坂長駅(現備前市三石に比定)にいたる。
同駅を発ち、金剛川の河谷を経て、吉井川を和気渡りで渡ると珂磨駅である。珂磨駅は現熊山町松木に比定され、駅館の存在をものがたる古瓦も出土している。もっとも同駅は延歴7年(788)に盤梨郡を建てた際、これまであった藤野駅の廃止いともなって新設されたものであった(『続日本記』同年6月7日条)。 藤野駅の所在地は、現和気町のJR山陽本線和気駅の南城か、もしくは同町吉田字飼葉(いば)がこれにあたるものと推定されている。
 珂磨駅から日古木(ひこぎ)峠・二井・上市・下市(いずれも現赤磐郡山陽町)を経ると高月駅であり、さらに旭川を牟佐渡り(現岡山市)を渡ると津高駅に達する。高月駅の位置については一般に現山陽町馬屋が有力視されているが確定的ではない。津高駅は古瓦が出土している富原南廃寺付近(現岡山市富原)であるとみられている。
牟佐の渡りからこの津高駅にいたる道筋については、半田山の南裾の「福りゅうじ縄手」(「平家物語」巻8)を経るとする説と、山の北裾を経るという説があってやはり確定的ではないが、後者を有力視する向きが多い。

 津高駅を出ると備中国に入り、津?駅にいたる。「津?」は「今昔物語」には「津坂」とみえ、駅の所在地は奈良時代の古瓦が出土した現倉敷市矢部に比定される。道は同駅から国分寺尼寺・国分寺(現総社市)の寺域の南を持坂(現倉敷)へと向かい、高梁川を渡るとやがて河辺駅に到着する。河辺駅の位置については、現吉備郡真備町川辺付近とする説があるが、その西方の有井から小山にかけて広がる古代集落址付近を想定する説も捨て難いものがある。
 河辺駅を小田川の北岸を西へ進むと小田駅であり、さらに西進し、後月駅を経て備後国に入ることになる。
小田駅は現小田郡矢掛町(やかげちょう)の毎戸廃寺の発掘調査の結果、正殿の位置に寺院建築と異なった建物が検出され、同時に馬の文字を刻んだ土師器の発見されたことによって、駅館跡がほぼ確定された。後月駅については、現井原市寺戸(てらど)付近とみる説と、同市字後月谷(しつきだに)に比定する説があって駅館の所在地は定かではないが、前後の駅の関係などからみて、寺戸付近説が有力である。

 『延喜式』によれば、備中の駅は以上の四つであるが、しかし、『類聚三代格』大同2年(807)10月25日の官符に、それより一つ多いい五つの駅が存在したことが指摘されている。しかし、河辺駅から毎戸遺跡までの距離が、「養老令」で定める駅間距離30里(約16キロ)より長いこと、備中国の駅間距離が基準距離より短い傾向をもつことなどの点から、毎戸遺跡の東に一駅あったとみる説は注目してよいであろう。

 古代山陽道は、いわゆる駅道とよばれる直通の道路であったが、現実はこの官道と交差するかたちで多くの交通網が形成されていた。駅使・伝使は国府・郡衙(ぐんが)で公務を果たせねばならなかったから、駅道以外に国府に入る道、郡衙を結ぶ路などのほか、人里伝いにつくられた替え道なども成立していったのである。
岡山県内でも、和気から備前国府(現岡山市国府市場付近に比定)にいたる古い道が、駅道を南に分かれる形で発達していったことがわかっている。中世山陽道の母型ともみられる道である。この古道は備前国府の南面を東西に走る大道に結ばれ、大道を西へ進んで三野渡りを経て、「福りうじ縄手」にいたるものと推定されている。


 11世紀以降、律令制の崩壊とともに駅制もくずれていったが、鎌倉時代になると、幕府の手によって街道が整備され、新宿が設けられていった。山陽道にも宿駅の機能をもつ集落が形成されていった様子は若干の記録によって確かめ得る。たとえば「平家物語」巻8(鎌倉中期成立―――には三石宿(現備前市)の名がみえ、また「一遍上人絵伝(1299、正安元年成立)では一遍が軽部の宿(現都窪郡清音村軽部)で布教したことがうかがえる。

 また中世山陽道の宿の発達の様子とともに、中世山陽道の道筋を確定するのに重要な手がかりを与えてくれるものに今川了俊の紀行「道ゆきぶり」(1371、応安4年成立)がある。
太宰府に赴くために了俊がたどった道は、船坂峠を越えて備前に入り、香登(かがと)(現備前市)―福岡(現長船町)―三野渡(現岡山市)―辛川(からかわ)(現岡山市)―軽部川(現高梁川)―妹山(せやま)(現真備町と矢掛町の境)―矢掛(現矢掛町)という道路であり、福岡・辛川・矢掛では宿泊・逗留している。吉井川の渡河地点としての福岡の市の賑わいの様子はすでに「一遍上人絵伝」でうかがわれるところであるが、観応元年(1350)に真冬追討のために西下した足利尊氏も、ここにひと月余りもとどまったことが知られている。了俊の「家ども軒をならべて民のかまどにぎはひつつ・まことに名にしおひたり」(「道ゆくぶり」)という述懐に、その繁栄の様は語り尽くされているといえよう。

 了俊が指摘するところによれば、中世の頃、備前へ入る道は船坂峠を越すと香登へ向かうようになる。和気から南下して片上(現備前市)の手前で車路越を通って伊部(いんべ)(現備前市)に至る古い路が駅道にとってかわったとみられるが、これは美作の物産の集荷港として片上(かたかみ)津が浮上してきたことと関係していよう。商業や市の発展にともなって、交通機関も大きく変化していったのである。

 いっぽう「太平記」によれば、三石宿(現和気町)・和気宿(現和気町)・唐皮(現岡山市)において、足利尊氏方と後醍醐天皇方との間に激しい合戦が繰り広げられていたことがわかる。南北朝の内乱期には山陽道沿いには城砦が築かれるようになり、また宿は攻防戦の舞台となっていったのである。記録のうえでは追跡できないが、こうした中世に形成されたとみられる宿は、はかに、古都宿(現岡山市)・宿(現岡山市)・山手宿(現山手村)などをあげることができる。

 戦国期をむかえると、兵員の移動・軍事物資の輸送、情報の蒐集・伝達の必要から、戦国大名による領国交通網の整備がさらに押し進められていった。山陽道は、天正14年(1586)、豊臣秀吉が島津氏の征討にあたり、毛利元就に対して九州にいたる道筋の普請と関所の撤廃を命じたことが契機となって一段と整備をみた。これとあわせて、16世紀末に備前国を制覇した宇喜多直家とその子秀家による岡山城下の整備にともなって、近世山陽道のルートが形成されていくことになった。すなわち、直家はそれまでの香登を通って福岡で吉井川を渡り三野渡りに至るルートを、居城の亀山城(現岡山市沼)に結ぶかたちに変え、天正元年(1573)に岡山に入場した直家の後をうけて、その子秀家はさらに道筋を城下に引き込み、万成山を越えて一之宮へと向かう道筋をつくり出していったのである。

 その後、備前へは慶長5年(1603)に宇喜多氏に代わって小早川秀秋が入り、さらに慶長8年(1603)には池田忠継が入部することになるが、山陽道整備の転機は池田光政の代においておとずれる。すなわち、光政が鳥取藩からあらたに入部した3年後の寛永12年(1635)には参勤交代の制が始まり、それによって山陽道にも宿駅・一里塚などの、交通上の便宜をはかるための設備が整えられていったのである。
県内を通る里程27.7里には、東から三石・片上・藤井・岡山・板倉(現岡山市)・川辺・矢掛・七日市・高屋(現井原市)の9宿が置かれ、これらの間の宿として、片上・藤井間に一日市(ひといち)(現岡山市)、矢掛・七日市間に堀越(ほりこし)(現矢掛町)・今市(いまいち)(現井原市)も形成された。また道程一里ごとに設けられた一里塚も21を数えたことが確認できる(「中国行程記」山口県文書館蔵)。

 山陽道は道幅が備前で2~2.5間(3.6メートル~4.5メートル)、備中で1~2間(1.8~3.6メートル)ほどの脇往還ではあったが、幕府巡見使・長崎代官・幕府代官などの幕府御用や、中国・九州の諸大名のための交通路として重要な役割を担っていた。そのため、各宿駅には本陣・脇本陣・旅籠(はたご)などの宿泊施設や、宿駅から宿駅をつなぐ人馬も整えられた。
県内での本陣・脇本陣が設けられた宿は、ひとつは岡山宿であった。岡山宿の本陣は三本陣と称し、正徳年間(1711~16)以降は栄町・西大寺・下之町にあったが幕末には紙屋町にも一軒設けられ、栄町のそれを本陣・他を脇本陣とするようになったといわれる(『岡山市史』産業経済編)。
本陣・脇本陣を備えられた宿は矢掛で、いまもなお現存するそれらに連なって町並みがはしり、昔の街道の面影をみることができる。

 宿駅をつなぐ常備人馬は、日光・甲州・奥州街道並みの25人・25疋(ひき)と定められたが、年によって必ずしも一様ではなかったようである。備前では岡山宿が25人25疋であるのに対して、藤井宿では人足数不明で馬は8疋・三石・片上には設定されず、馬のみが駅馬加足米によって両宿および近隣諸村から徴発された。
備中では板倉宿で人足数は不明で馬8疋・矢掛宿が25人・25疋、七日市宿が25人・25疋、高屋宿が15人・20疋となっていて、川辺宿は人馬とも不明である。こうした常備人馬のみでは大規模な継送りは困難であったから、この他に街道筋の村々の人馬の補助を行う助郷村も設定されていた。幕府の直轄ではなかった山陽道の助郷は、五街道筋に設けられた強制力の強い指定助郷とは違い、宿駅からの要請をうけて出役する相対助郷であったが(藤沢晋『近世封建交通史の構造的研究』)、その担が決して軽いわけではなかった。身分・家各に応じて定められた通行員数の超過に際しては、規定以外の相対貨銭を支払うのが決まりであったが、大方の場合守られなかったため、宿駅近郷の村々では、出役の負担のみならず過重な経費負担を強いられたのであった。

 近世山陽道が、こうした支配階級の利用に限られたものではなかったことはいうまでもない。伊勢参り・琴平参り、その他社寺参詣のために諸国の民衆もまたこの道を通行したのであり、沿道にはそうした旅人のために茶店も設けられていたことが「中国行程記」、「吉備温故録」、名古屋の商人菱屋平七(吉田書房)の「筑紫紀行」などによって確認される。








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