********** 神 武 東 征 **********


 時は紀元前1046年頃から紀元前256年にけかけて中国大陸で繁栄した周王朝の時代、「日出ずる国」をめざして中国大陸南部から高度な航海術と稲作文化を持って、荒海を越えて鹿児島県薩摩半島の西海岸、野間半島にたどり着いた集団があった。
これが天孫族といわれ、大陸の覇権主義の影響を受け、騎馬と豊富な鉄器による強力な武器を持つ渡来集団であり、これぞ天照大神が率いる邇邇芸命(ににぎのみこと)の一団が上陸し九州にて新しい国家を造ることになる。
邇邇芸命(ににぎのみこと)は天照大神の孫にあたり、稲作・農業に優れた人物(農業神・稲穂の神と言われた。)であり、農業に適した場所として、日向の地に新しい国造りを始めた。

一行は、次々に土着勢力を倒し、宮崎県日向の地で三代かけてさまざまな策略をめぐらしながら、次第に国家体制を固める中、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)(後の神武天皇)は3人の兄たちをさしのけて太子となり、その後、邇邇芸命(ににぎのみこと)のあと、日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)(別名=山幸彦・天津日高(あまつひこ))、鵜葺草葺不合神(うがやふきあえずのかみ)(別名=天津日子波限武(あまつひこなぎさたけ))に次いで四代目の国家の王についた。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は45歳のとき、天照大神や長兄五瀬命(いつせのみこと)ら3人の兄たちと高千穂の地に集合して相談し、大八島(おおやしま)(日本全州)の政を行う場所「青山をめぐらす東方の地」(今の奈良県付近)を目指す決心をした。
この時をもって、三代続いた日向の地を後にし、長い東征の戦いの旅が始まった。

海路で日向を出発した一行は、筑紫の宇佐から岡田宮で1年間滞在、安芸のタケリ宮(7年間滞在)、吉備の高島宮(8年間滞在)を経て、難波の岬から「河内國(かわちのくに)草香邑(くさかむら)青雲白肩之津(あおくもしらかたのつ)」に向かうのである。

   ○ 「青雲白肩の津」とは、古代には大阪府一帯は河内湖であった現在の枚方市(ひらかたし)付近で、
      「青雲の」は「白」の枕詞。 生駒山西麓の東大阪市日下(くさか)町周辺にあった船着場。
      古代は草香江と呼ばれる潟湖・江湾に臨んでいた。(「楯津」または「日下の蓼津」とも言う)
   ○ 岡田宮………福岡県北九州市八幡西区岡田町、1年間滞在

   ○ タケリ宮……広島県安芸郡府中町 7年間滞在
     多気神社(多祁理(たけり)の宮・日本書紀では埃宮(えのみや)と記されている。)
     高知県安芸郡奈半利町の多気神社(阿岐国多祁理の宮)である、という説もある。

   ○ 高島宮……… ・児島郡甲浦村大字宮浦字高島説 8年間滞在(日本書紀では3年間と記されている。)

        この吉備高島宮の候補地について諸説はあるが皇紀2600年(昭和15年)文部省により
        児島郡甲浦村大字宮浦字高島が指定された。

   ・岡山市賞田説、                      
            龍の口山の南麓  8年間滞在(日本書紀では3年間と記されている)
            「吉備高島宮」については、沼隈郡説・神島説・宮浦説・高島山説がある。

   ・笠岡笠岡諸島高島説
            古事記・日本書紀に神武天皇が九州から近畿へ宮を移すに当たり、途中吉備高島へ
            仮宮を置き3年若しくは8年滞在したと記されている。この吉備高島宮の位置について
            諸説があり古くから各地域で当地こそはと宗家争奪のアピ−ル合戦がおこなわれていた。

       この問題は、皇紀2600年(昭和15年)文部省により児島郡甲浦村大字宮浦字高島が指定され、
       一応のピリオドを打った。
 
さて、上陸しようとしたものの土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあい、やむなく紀伊の雄水門(おのみなと) (山城水門を雄誥水門(おたけびのみなと)これを縮めて 雄水門(おのみなと)と呼ぶこととなった。)からの上陸も失敗し、紀伊半島の東へと廻り狭野から熊野の神邑(みわむら)(和歌山県新宮市佐野、熊野川河口に位置する)で上陸し竈山(そうざん)へと進軍した。
さらに不運な嵐や豪族の抵抗にあい、長兄五瀬命(いつせのみこと)などをつぎつぎと失いつつ、東征軍は吉野、宇多へと進軍した。幾多の困難を乗り越え大和まで攻め込んだ神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、長兄五瀬命(いつせのみこと)の命を奪った宿命のライバル饒速日尊(にぎはやひのみこと)と戦うこととなった。
饒速日尊(にぎはやひのみこと)(古代の呪術(じゅじゅつ)を司る穀霊神)は、やはり天照大神の命を受けて十種の神宝(とくさのかんだから)(天璽端宝(あまつしるしのみずだから))を授かりこの地に来ているのだ。
十種の神宝(とくさのかんだから)とは→澳都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・死反玉(まががえしのたま)・足玉(たるたま)・道返玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのひれ)
(大別すれば、鏡、剣、玉という三種の神器に比礼がプラスされている形になる。)
 
   ◎三種の神器
      ・古来、鏡・剣・玉は、大いなる呪力を持つ祭器とされたものである。
         鏡 → 物事の本当の姿を写しだし繁栄させる力。
         剣 → 邪悪なものを退ける力。
         玉 → 生命力をもたらし、肉体を充足させ、あるいは死者をよみがえらせて魂を呼び戻す力。
   ◎比礼(ひれ)
      ・古来、女性が正装するときに肩にかける薄くて細長い布(領巾(ひれ))のことで、この比礼を振ると
       災いを払う呪力(じゅりょく)が生まれる。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)は大和の地方豪族として独立していた息子の宇摩志摩遅神(うましまじのみこと)、さらに長髄彦(ながすねひこ)とともに、文字どおり日の神の血を受け継ぐ王と、近畿地方の覇者との対決となり東征始まって以来の激戦となり、両軍とも死力を尽くして戦った。
ついに饒速日尊(にぎはやひのみこと)は破れ、大和の支配権を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)に献上したのである。
これによって、大和国は天皇家の統治するところとなり、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は強行した東征を見事成功させて、悲願であった「青山をめぐらす東方の地」を手にすることができたのだ。
これは、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)から綿々と受け継がれてきた統一国家樹立の夢がついに叶った瞬間でもあった。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は大和国の大王として橿原宮(かしはらぐう)(現在の奈良県橿原市)で即位し、神倭伊波礼毘古火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)となった。(紀元前660年)
 名実ともに大和王朝の建国者であり、大和王国の第一代目の大王となり、後の世にいう初代の神武天皇と言われるようになった。







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