吉 備 王 国 史

 本編は、かつて吉備王国が渡来人の知恵と大陸の技術をもって発展し繁栄した時代、「神武東征」によって大和王朝がひらかれ、その大和の国からの侵略により、次第に吉備国衰退の道をたどり、大和王朝に組み込まれていく変遷を要約して簡潔にまとめたものです。
 
「 歴史系統図 」 等と合わせてご覧下さい。


1.古代吉備の大地

岡山県南部の古墳時代前半期 首長墳分布図(海岸線は推定)
〔岡山県史古代編より〕
 上図古墳の名称は⇒ または[古墳]編を参照。


○古代において、今の吉備津神社付近まで海が迫っていた。
「吉備の中山」は、瀬戸内海に浮かぶ島か半島であった。
○この付近は吉備のほぼ中心地として栄えた港は、吉備国の要の地であった。
米・鉄・塩・海の四大資源を持った豊穣の吉備国で、独自の文化を築いていた。


     ■ 古代瀬戸内地域〔吉備〕の形成

◇ 瀬戸内海の形成
岡山県から広島県東部は、先土器時代の遺跡が集中する地域の一つとして知られている。その多くは、先土器時代のうちでもナイフ形石器を主要な道具道具として用いる、2万年まえ前後の遺跡である。この時期、世界は最終氷期の最寒冷期にあたり、年平均気温は現在より6度前後低く、その結果、海水面は140メートルも低下していたとされている。したがって、最深70メートルあまりの瀬戸内海は完全に陸地化し、先土器時代の狩人が活躍する場となっていた。
ところが、先土器時代の終わりころから気候は温暖化に向かい、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇が始まった。このことを如実に物語る遺跡として、縄文時代早期の牛窓町黒島(くろしま)貝塚や黄島(きしま)貝塚などがある。いずれも瀬戸内海に浮かぶ小島に所在するものの、ヤマトシジミを主体とする貝塚であることから、当時周辺は淡水産貝類が生息する自然環境であったと推定される。ところが黄島貝塚の貝層を見ると、下層はヤマトシジミを主体とするが、上層では鹹水(かんすい・海水のこと)産の貝であるハイガイが主体となっていた。この変化は、早期のうちに河川や汽水湖から、砂泥質の海となっていたことを意味している。
海水面の上昇はその後さらに進んだ。そして縄文前期初頭にはピークに達し、現在の沖積平野の奥深くまで海水が進入していたことが、海から遠く離れた沖積平野に面した山裾に点在している、鹹水産貝塚群からうかがえる。

◇ 海浜集落の発展
海水面の上昇による瀬戸内海の拡大は、縄文人の活動領域を奪うこととなったが、その一方で豊かな海産資源を提供することとなった。その結果、これまでは狩猟・採集活動を行いながら移を繰り返していたが、縄文前期以降は海浜部に定住し、海産資源の効率的利用へと向かい始めたのである。
こうした生業活動は年中無原則に行われたのではなく、集団の領域内で季節的な計画姓に基づき、幼獸や未熟な植物採集の禁止などの規制がなされていたと思われる。こうして始めて集団が維持され、さらに発展していったものと考えられる。
・倉敷市磯の森貝塚 ・倉敷市西岡貝塚 ・倉敷市船元貝塚 ・船穂町里木貝塚 ・邑久町大橋貝塚 ・灘崎町彦崎貝塚 など。

◇ 地域性の強い津雲(つぐも)人
使者を埋葬する行為は先土器時代から見られるが、発見例は圧倒的に縄文時代以降が多い。とりわけ岡山県から広島県東部では、貝塚から多くの縄文時代人骨が掘り出されている。そのうち笠岡市津雲(つぐも)貝塚は比較的広い墓域が明らかにされた上、後・晩年に属する170体近くもの人骨が出土したことで著名である。

◇ 沖積平野への進出
縄文時代以降海水面は安定したが、それとともに河川による沖積化が進行し、海が後退しはじめた。その結果、海の後退に伴う環境の変化から海産資源の大幅な減少を招き、海浜集落の存立基盤をおびやかすこととなった。そこで解決のひとつとして、集団分岐をとったものと考えられる。縄文後期における小さな遺跡の出現、あるいは山間部での縄文後期の遺跡の増加は、こうしたことを物語っているのではないだろうか。
河川による土砂の運搬は海を埋めていったが、一方では新たな陸地を形成を形成した沖積平野(微高地)である。沖積平野は、海産資源の減少に伴い後背地における生業活動の拡大を模索していた海浜の集団にとっては、格好の生活の場となった。
・岡山市百間川沢田遺跡 ・総社市南溝手遺跡 ・倉敷市福田貝塚 ・備前市長縄手遺跡 など。



2.三世紀末の「神武東征」

【神武東征】
日向の高千穂にいた神武天皇が、あるとき東征を思い立ち、軍船で瀬戸内海を進んで河内に上陸、そのまま生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、その土地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあって進むことが出来なかった。
そのため、まっすぐ進むのをあきらめて紀伊半島を迂回し、熊野から吉野を経て大和に入り、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。
その後、辛酉(しんゆう)の年の正月、橿原宮(かしわらのみや)で即位し、日本の初代天皇となった。

大陸の覇権主義の影響を受けている「天孫族」勢力が、「日出ずる国」を求めて九州に上陸。
大陸の騎馬と豊富な鉄器による強力な武器を持つ。
九州から吉備の高島(百間川河口にある高島の高島宮)に入り、8年間在住。
『この間、「宮山古墳」などを築造した吉備の勢力の強力を得て、「前方後円墳」の形態や「特殊器台型土器」の祭祀(さいし)文化を取り入れて王権を強化。』
大和を征服して、その地域を支配。
3世紀から4世紀にかけて、突如、吉備特有の宮山型「特殊器台」と「特殊壺」を伴う「箸墓古墳」や「西殿塚古墳」の巨大な「前方後円墳」を築造し、大和王国の覇権を確立。

3.吉備王国を侵略

勢いに乗った大和王国は、協力者の吉備王国に対し、第7代孝霊(こうれい)天皇の子「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」 の侵略軍を差し向けて来た。
「恩を仇で返す」卑劣なやり方だ!
これに対し、吉備津彦命に率いられた吉備国は、激しい怒りに燃えながら国を挙げて頑強に抵抗したが、無惨にも破れてしまった。
ここで、吉備津彦命は五十狭芹彦命に対し、「ただ今より和平の証として、自分の吉備津彦命の名前を差し上げます。」と言って降伏した。
【敗者が勝者に名前を献上するのは、服従の証であるとする慣わし があったようだ。】


4.吉備津彦命を英雄神として讃えた

吉備の人々は、大和の侵略軍に対して頑強に抵抗した吉備津彦命を英雄神として讃えた大和王国にとっては、それは面白くない。だから大和王国は吉備津彦命を、大和に抵抗した恐るべきべき「鬼」としての烙印を押し、吉備の始祖としての業績や栄誉などを歴史から抹殺しようとしたのである。
【もともと吉備で発生した「前方後円墳」の形を、今度は逆に吉備の首長たちに強制して、吉備を支配することとなった。】
吉備津彦命を吉備の始祖の地位から排除。そのかわり「稚武彦命(わかたけひこのみこと)」を始祖の地位に据えたのである。
「稚武彦命」は穏健派とみられ、途中から吉備平定に協力したと考えられる。 この系統が、吉備の臣として次の世代の吉備の代表となり、大和王国と協調的な関係を続けていく。


5.五世紀代

吉備在地勢力の「御友別(みともわけ)」は、大和王国に強力したために吉備支配権が認められ、 その一族は吉備国内の地域支配の「縣(あがた)」に封じられた。


6.雄略(ゆうりゃく)天皇 (456〜479)  

ワカタケル大王が雄略天皇となり、関東から九州までに及ぶ大和王権を握った。


7.大和王権の謀略

5世紀末、吉備王国に対し様々な謀略を挑発し仕掛けてきた。
吉備の側は、それにまんまと乗せられ、3つの反乱の動きを
見せた。
この機会をとらえた大和王権は、反乱鎮定の名目で軍を差し向け、吉備王国を代表する 「下道臣」と「上道臣」の首長を打倒し、吉備系皇子も焼き殺した。
これによって吉備王国は大きな打撃を受け、確実に大和政権の支配下に組み込まれた。
吉備の経済力の源泉となった豊富な「砂鉄資源」も大和に奪われてしまった。 


8.六世紀中葉
   
欽明(きんめい)天皇(540〜571)の時代


大和王権は、大きな対抗勢力や反対勢力がなくなると、様々の規制を加えてきた。
地方豪族の古墳の構造に規制を加える。
国造制(くにのみやつこせい)、部民制(べのたみせい)、屯倉制(みやけせい)、 などを実施して大和王権による支配を一層強めていく。



            ○ 国造(くにのみやつこ)制

縣(あがた)主などの地方豪族を「国造」に任命して、強力な警察権を与えて民に対する間接支配を狙った。
吉備では、 大伯(おおく)国造
上道(かみつみち)国造
加夜(かや)国造
下道(しもつみち)国造
以上(上道〜下道)3つの国造に
こうもり塚古墳・箭田大塚古墳・牟佐大塚古墳
巨大横穴式古墳がある。
【これが、岡山県の 《 巨大石室を持つ3大古墳 》 と言われているもの。】
三野(みの)国造
波久岐(はくぎ)国造
吉備中縣(きびなかあがた) 備後地方
備穴(きびあな)    〃
吉備品治(きびほくち)    〃

            ○ 部民(べのたみ)制

皇族や有力豪族が地域の民を組織した「地域集団」あるいは「職業集団」 (地域の生産物や貢納品などを上納した。)
天皇に直結する部民 名代、子代としては、白髭部(はくしべ)、
額田部(ぬかたべ)など。
軍事に関わる部民 久米部、佐伯部、建部など。
行政に関わる部民 財部、刑部(おさかべ)、
品治部(ほむちべ)など。
生産に関わる部民 海部(あまべ)、鳥取部(ととりべ)、
服部(はとりべ)、錦織部(にしきおりべ)、
弓削部(ゆげべ)、鞍作部(くらつくりべ)、
土師部(はじべ)、須恵部(すえべ)、
山守部(やまもりべ)、伊福部(いふくべ)
など。

            ○ 屯倉(みやけ)制

屯倉(宮家)は開明的で強大な古代豪族、蘇我氏の主導のもと、全国の中でも 最も主要な拠点に設けられた大和王権の直轄地。
吉備には、
白猪屯倉(しらいみやけ)(真庭市久世) 美作地方
豊富な鉄資源の確保。
出雲への流出の抑えを狙う。
児島屯倉(こじまみやけ)(岡山市)
漁業資源と塩業の確保と、瀬戸内海の航海権、制海権を吉備から奪い取るものであった。

こうして、吉備の中枢部にクサビを打ち込み、後の律令制の実験場ともいえる 新しいシステムの運営を始めた。


9.七世紀中葉の混乱

            ○ 大化の改新(乙巳の変)  西暦645年

[皇極天皇4年6月12日] この時代は天皇が政治的に大きな地位を占めていた時代で、皇位継承争いは凄ましいものがあった。
推古天皇の皇太子であった厩戸皇子(聖徳太子)が早死にしてしまったため、後継者を めぐって熾烈な争いとなり、「三韓の使者が天皇に謁見」する行事の機会をねらって、 蘇我蝦夷・入鹿親子が中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に倒されて「乙巳の変」、いわゆる「大化の改新」が始まり、中大兄・中臣鎌足・蘇我石川麻呂 とともに3人のトロイカ体制で新しい政治体制の確立を図った。
やがて、この3人のうち蘇我石川麻呂は邪魔にされるようになり殺されてしまい、 代わりに中大兄の弟の大海人(後の天武天皇)が大頭して新しいトロイカ体制に移行し、やがて中臣鎌足が死去すると体制が崩れて、壬申の乱へと歴史の歯車は動いていくのである。
強力な政治権力と祭祀権力を併せ持った天皇権の一層の 集中強化を図った。
                        ※(「大化の改新」は明治以降につけられた名称)

            ○ 壬申の乱  西暦672年

[天智天皇の時代、弘文天皇(大友皇子)と大海人皇子(天武天皇)の間で行われた内乱。672年は壬申で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるため、これを壬申の乱と呼ぶ。]

当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟で皇位継承の慣例に代わって、唐に習った嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。
さらに、大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へとつながっていった。

        ◎ もう一つの背景
天智天皇の即位前(663年)に百済の復興を企図して、朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江(はくすきのえ)の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。
このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地から琵琶湖南端の近江宮へ移した。また、国内の政治改革も急進的に行われた。
しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。

強力な軍事独裁の天皇権を背景に、中国の都城制に倣(なら)って都を、明日香京→藤原京→平城京へ移り、これまでの有力豪族に代わって官僚的中央集権的な統一国家をめざす、本格的な律令制を実施することとなった。

以上のように大和王権は弱体化した吉備王国を完全に潰滅(かいめつ)させ、九州の筑紫とともに広域的な地域を監察する中央官人の「吉備大宰(だいざい)」を設け、吉備大宰の初代長官に「石川王(いしかわのおおかみ) 」を派遣し、「備前」・「備中」・「備後」の3つに分割、さらに備前の北部を「美作」に分割した。
この時、吉備の聖なる地、神奈備山の「吉備の中山」は、ほぼ中間点で備前と備中の二つの国に分割され、吉備に対する大和王権の巧妙な分断策が執られた。そして、それぞれの国に中央(大和王権)からの国司を派遣、これまでの国造の領域を「評(こおり)」(後の郡) 、この下に「里(り)」(後の郷・村) を置き、さらに全国的に戸籍を作成して、末端の民に対する直接支配を貫徹しようとした。
 
10.吉備津神社の分霊

吉備王国を分断することによって、吉備津神社の分霊を行った。
現存する吉備津神社は 「備中」に。
「備前」には 吉備津彦神社(岡山市)。
「備後」には 吉備津神社(福山市)。
4つの分割された吉備国に、それぞれ神社を設置。
艮(うしとら)神社
艮御崎神社
御崎神社
御前神社


11.奈良時代末期 
    
吉備地方から2人の傑出した人物が登場


吉備真備 …… 中国の唐へ2度も渡って様々な学問を学び、最後は右大臣となり、当時は最高の学者文化人と言われていた。
和気清麻呂 …… 宇佐八幡神託事件で弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を排斥(はいせき)して皇統を譲ったことで知られ、 後に平安京(京都)への遷都計画を推進した功労者である。


12.平安時代中期、吉備津神社の昇格

古代律令制の矛盾が拡大し、公地公民制の建て前が崩れて私有地が増え、瀬戸内海では海賊が横行するようになった。

海賊の横行に手を焼いた朝廷は、瀬戸内海の中枢部に位置する吉備の強力が必要と考え、 吉備の人々の精神的シンボルである吉備津彦命に注目し神階を上げていった。

承知14年(847年) 吉備津神社を無位から 従四位下
承知15年(848年) 従四位
仁寿 2年(852年) 皇族に与えられる「四品(しほん)」を授けられ官弊社となった。
平安 元年(857年) 三品
天安 3年(860年) 二品
天慶 3年(940年) 一品(最高の神階)

神階上昇のもう一つの要因
「怨霊の神」の御霊信仰の流行
右大臣、菅原道真の九州太宰府への追放による道真の怨霊
これに恐怖した朝廷は、盛大な鎮魂の神祭を行った。
[京都の北野天満宮]・[九州の太宰府天満宮]など。


13.吉備津神社の再建

吉備津神社は室町時代、足利義満によって再建。
比翼入母屋造、天竺(てんじく) 様式(インド)の粋を取り入れて造られた拝殿と本殿の規模は、 京都の八坂神社に次ぐ2番目
ともあれ、恐ろしい吉備津彦命の怨霊から逃れる方策として吉備津神社を建立、位階を上げ続けて鎮魂の証とした。




吉備津彦命は、吉備を征服した大和の侵略者ではなく、吉備のために戦い死んでいった吉備在地の悲劇の英雄神だからこそ、吉備の人々は、その統一的祖先神とて信仰し続けることになったのである。





Copyright (C)  2005 minamishinogoze-town Okayama-City Japan
from site Separation independence
All Rights Reserved