

● 祭神
・拝画 大神神社四柱の拝画(北嶺作画)が拝殿に掲げられている。
拝画向かって右から
○大物主神 ○三穂津姫神 ○大穴牟遅神 ○少毘古那神
★ 大国主命 [オオクニヌシノミコト]
別名 = 大物主神(オオモノヌシノカミ) ・
大穴牟遅神(オオナムチノカミ) ・
葦原色許男神(アシハラシコノオノカミ) ・
八千矛神(ヤチホコノカミ) ・
宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ) ・
国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト) ・
三穂津彦大神(ミホツヒコノオオカミ) ・
御蔭大神(ミカゲノオオカミ)
○性別 ♂
○系譜 素盞鳴尊(スサノヲノミコト)の六世の孫。
沼河比売神、奥津島比売神など多くの女神と結婚。
子は阿遅鋤高日子根神、事代主神建御名方神など181神
○神格 国作りの神(文化神)、農業神、商業神、医療神
| 大国主命は、いわずとしれた日本の神様の中のスーパースターである。出雲大社の縁結びの神様で、有名な「因幡の白 兎」の話の主役、あるいは七福神の大国様だということは誰でも知っているだろう。さらに、出雲神話の主役で、全国の国津 神の総元締めみたいな存在である。英雄神としては、素盞鳴尊やギリシャ神話の英雄のように怪物退治といった派手なこと はやっていないが、少彦名神とコンビを組んで全国をめぐって国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病気治療 、医薬の普及、禁厭の法則を制定、といった数々の業績を残した偉大な神であることも知られている。 大国主命の複雑な魅力のポイントは、全体のイメージがなかなかつかみにくいところにあるといっていいだろう。 もっとも我々を悩ますのがその名前である。「日本書紀」の一書には、「大国主命、なたの名を大物主神、または国作大己 貴命と号す。または葦原醜神という。または大国玉神という。または顕国玉神という」とある。 複数の名前を持つ神は、多くの神様がいる日本では珍しくもないが、それにしてもこの神ほどいろいろな呼び方をされる神 はいない。プラスに考えれば、ちょっとばかり失礼であるが、美男子で妙に多くの名前を使い分けたりするのは、俗世間では 詐欺師かそのたぐいの怪しい商売をしている輩と相場が決まっている。そういう危ないイメージを膨らませてくれるところが、 この神の面白味でもある。 ※ 禁厭の法則 = 神仏や神秘的なものの威力を借りて、災いや病気を取り除いたり、他人に災いを与えたりすること。 禁厭(まじない、きんえん)とは、日本在来の呪術(じゅじゅつ)のことで、神道では大国主命と少彦名神 を禁厭の祖神としている。 |
★ 三穂津姫神 [ミホツヒメノカミ]
別名 = 多紀理姫(タキリヒメ) ・ 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)
○性別 ♀
○系譜 高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の子。 大国主命に嫁ぎ后神
○神格 稲作の神、縁結びの神
| 三穂津姫命は高天原の斎庭の稲穂を持って地上に降り、農耕を勧めた。御種を受けるということから安産守護の御神徳 は特に著しい。 稲穂は五穀の第一である米を意味するは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごとくの生命カを表現して いる。 従って大神は人間はいうに及ばず、一切の生物の生命力を主宰せられる大神である。 故に古人はその御種につい て、「これを頂いて帰り、時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯(もち)でも粳(うるち)でも願望のものが出来る。・・・・・ 」と 感嘆しているが、田植後には農家の人達の農穣祈願のお参りが盛んであり、島根県の美保神社では十二月三日に行う 諸手船(もろたぷね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいい、農穣感謝の意味もあって一般の参拝がすこぶる多い。 |
★ 少彦名神 [スクナヒコナノカミ]
別名 = 少毘古那神 [スクナヒコナノカミ]
○性別 ♂
○系譜 造化三神(ゾウカノサンシン)の神産巣日神の子
○神格 国土経営の神、医薬神、酒神、温泉神
| 少彦名神は、海の向こうの常世の国から光り輝きながらやってきた小人神である。日本神話の中の人気者であり、中世の 「日本霊異記」の道場法師や近世の御伽草子の一寸法師などの「小さ子」のルーツとされている。その人気の秘密は、 小人神でありながら国造りという大きな仕事を成し遂げるという、サイズとスケールの関係の飛躍制にある。 さらにその性格は明るく、いたずら者でユーモラス。しかも豊かな技術と知識と優れた知恵を備えている。力ではなく、 持ち前の知恵を働かせて困難を見事に克服して見せるという独特なヒーロー性も見逃せない。 大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、波頭を伝わって天の羅摩船(カガミブネ=ガガイモの穀でできた船)に乗り 鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て表れた。不思議の思った大国主命が家来の神に尋ねたが、誰もその正体を知らなかった。 そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」というのでクエピコに聞くと 「神高巣日神の御子で少彦名神です」と答えた。そこで大国主命が出雲の祖神である神高巣日神に伝えると、神jは「これは 私の掌の股からこぼれた子である。これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」と二神に申し渡した。 こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行い、その任務を果たしたのちに再び常世の国 に帰っていくのである。 |
| 【祭神】 祭神(さいじん)とは、ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉である。 現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としているか、日本神話の神と同神であるとしている。 元々神道は海・山・川などを神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。記紀や万葉集などでも、祭神の名が記されているのは伊勢神宮、住吉神社などごくわずかであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座地名や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていた。延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。 10世紀ごろから、それまでの氏神・地主神としての性格だけでなく、火の神・水の神・木の神などの具体的な神徳・機能が附加されるようになり、祭神も、その神徳に合わせて地名・社名から日本神話に登場する神、あるいは「命」「彦」「比売」などをつけた人格的な神に移行するようになった。また、稲荷・八幡などの有力な神を勧請してそれを主神とすることも広く行われた。 【主神・配神】 通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)・配祀神(はいししん)・相殿神(あいどのしん)などという。 祭神を主神・配神に分けるのは、明治時代に官国幣社で行われるようになったのに始まるものであるが、「主神とそれ以外の神」という観念はそれ以前からあり、「前」、「相殿神」などと呼ばれていた。配神は通常は主神に縁のある神であるが、その他様々な経緯により共に祀られるようになった配神もある。主神と同時に祀られるようになった配神もあれば、後で加えられた配神もある。中には、元々は配神であったのが、後に主神に取って変わったものもある。明治時代の神社合祀により、多くの配神を祀ることになった神社もある。 相殿(あいどの。合殿とも書く)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指す。「相殿神」とは相殿に祀られる神のことであるが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神という。 |
● 祭日
・ 春祭 5月第二日曜日
・ 秋祭 10月第三土曜日と翌日の日曜日
● 由緒
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ここ大神神社境内に表示されている由緒が上記の通りである。 大神神社四座(オオガジンジャシザ)とは座中全体をさす意味から、延喜式神名帳が発刊された当時から、ここ土師の森境内に鎮座している「梨本神社」「柿本神社」とともに、大神神社の旧名である「土師宮」とあわせて神名帳に登載されたものと思われ、これらの末社(または摂社)とともに、いわゆる政府に認められた神社といえよう。 備前国総社神名帳にも、やはり『大神神社四座(柿本神社・梨本神社)』と記されている。 「四御神村」の村名は、この神社によったものである。 上道郡式内式外14社中もっとも上位におかれた神社で、中世には神官不在の神社が多かったが、大神神社は、「右壱処在神祇官」と神名帳にしるしてある。 旧四御神村一円の氏神。 ※ 「神祇官」(しんじかん)は律令制において神祭をつかさどる官職で、位は太政官と並び、祭祀にあたっては太政官を指揮したが一般行政事務については太政官の下位にあった。 |
| 同社は、もと四御神の背後にある惣堂山の上に祀っていたので、神社の書上に次のような記録がある。 「上道郡四御神村大神々社式内神ニ御座候而先年大和国三輪ノ御共ニ而四御神ノ山ニ御鎮座申由ニ候、今宮跡御座候、爾後神妙之儀御座候而今之処ニ御鎮座ト申伝最モ縁起神宝等申物焼失、慶長元年中ノ書付御座候 (以下略)」とあり、慶長年間の社領は一町七段八畝九歩、高三十一石二斗四升七合と書き付けに残っている。 ◆大神神社 旧跡地(旧土師宮)について一考 惣堂山は、岡山市史によると備前車塚古墳の有する山か竜之口山の周辺とみられる。 旧社の位置を示す石標により北へ1300mを地図上で計測すると、直線では竜之口山頂(およそ北北西に向く)、及び真北には竜之口東山頂の廃寺跡にピタリとあう。 東山頂には廃寺跡があることから説得力があるし、惣堂山となると竜之口山頂付近であろうが、どちらにあろうと違和感はない。 備前車塚古墳築造後、やはりこの地域の首長の墓と云われる宍甘山王山古墳には、「山王社」をお祀りしているがごとく、車塚古墳には築造後「大神社」をお祀りしたのであろうか? 前記のとおり、社殿の焼失を契機として現在地の土師の森に移築したのであろうか? いずれにせよ、竜之口山付近にその痕跡が発見されないかぎり、東山頂の廃寺跡が旧土師宮であったと思いたい。 昭和2年に石標が建立されたときには、その旧跡地が特定されていたのだろうか? |
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| 大神神社現在地より、およそ 100m南に古代の名残を示す 旧土師宮の位置石標 <昭和2年5月建立> |
| 【 延喜式とは? 】 国宝: 「養老律令」の施行細則を集大成した古代の法典 『延喜式』(エンギシキ)は、醍醐天皇の命により延喜5年(905)、藤原時平ほか11名の委員(藤原定国、藤原有穂、平惟範、紀長谷雄、藤原菅根、三善清行、大蔵善行、藤原道明、大中臣安則、三統理平、惟宗善経)によって編纂を開始したから「延喜の式」だ。この延喜5年という年は、勅撰集第1番目の『古今和歌集』の編纂が開始された(一説に、出来た)年でもある。 さて、式は延長5年(927)、藤原忠平ほか4名が奏進する。その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967)に施行された。全50巻。条数は約3300条で,神祇官関係の式(巻1~10)、太政官八省関係の式(巻11~40)、その他の官司関係の式(巻41~49)、雑式(巻50)と、律令官制に従って配列されている。 ※ 延喜式神名帳 = 延喜式の第9巻・10巻が神名帳にあたる。 【 大宝律令と養老律令】 ◇ 大宝律令 大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭に制定された日本の律令である。 唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。 大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。 ※ 現代風に表現すると 律=刑法 令=行政法・民法 ◇ 養老律令 養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本の中央政府が757年(天平宝字1)に施行した基本法令。 701年(大宝1)、藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立したが、その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた。ところが、720年(養老4)の藤原不比等の死により律令 撰は一旦停止することとなった(但し、その後も改定の企てがあり、最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある)。その後、孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。 構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済 状況と齟齬をきたし始め、平安中期までにほとんど形骸化した。 形式上は明治維新で廃止されるまで約1100年間存在し続け、日本史上最長の歴史を持つ明文法令である。 |
| ☆ 神々の系譜や国内神名帳について詳しい、サイトのご紹介をしておきます。 | |
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| 社殿構成 | 権現造 | 吹放の建物で 四棟が縦に並 ぶ荘重な社殿 構成である。 |
| 本殿 | 一間社流造檜皮葺 | |
| 弊殿 | 三間二面入母屋造本瓦葺 | |
| 釣殿 | 梁間二間桁行三間両流造本瓦葺 | |
| 拝殿 | 三間二面入母屋造本瓦葺 | |
| 随身門 | 三間一戸 |
この大神神社は、「大物主神、大穴持神、少毘古那神、三穂津姫神の四柱を祭神とする旧郷社、」と、岡山市史で説明されている。
6世紀中葉、欽明天皇(540~571)の時代、後の律令制の実験場ともいえる新しいシステムを、国造制(くにのみやつこせい)、屯倉制(みやけせい)、部民制(べのたみせい)として大和王権による支配を一層強め吉備の国を統治するために実施していく。
とりわけ部民制にあっては、皇族や有力豪族が地域の民を組織した「地域集団」あるいは「職業集団」を作った。
天皇に直轄する部民、軍事に関わる部民、行政に関わる部民、生産に関わる部民に分けられ、生産に関わる部民には、海部(あまべ)、鳥取部(ととりべ)、服部(はとりべ)、錦織部(にしきおりべ)、弓削部(ゆげべ)、鞍作部(くらつくりべ)、土師部(はじべ)、須恵部(すえべ)、山守部(やまもりべ)、伊福部(いふくべ)などと区分され、地域の生産物や貢納品などを上納した。
土師という地名はあちこちに残されているが、ここ土師の森(現在の四御神)も、土師部の集団であったであろうか、この頃(6世紀頃)は土師村と称していた。それまでは大神村(又は、御神村・大領村)いずれも
”オオガムラ”と称していたと伝えられている。
大神村は「大神郷」(おおがきょう、おおみわきょう)といわれ、大神氏の領地であったと思われる。
大神(おおみわ)氏は大和国に興り、大神(おおみわ)神社を祀る氏族で全国的に勢力をのばした。『和名類聚抄(和名抄)』によると 、大神郷などは、畿内3、東海2、山陽1、西海道2カ所とあり、畿内以西で瀬戸内に接したところが多いと大神氏族の研究者は指摘する。
由緒の項で説明されている「奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)の御分神を大神朝臣という人が此の地に奉祀したものといわれています。」の説明はうなづける。
ところが、大神朝臣という人物は、大神一族のなかに分かっているだけで6人が存在する。
”朝臣(あそみ)”というのは、壬申の乱の後、大王(天皇)への忠誠心の強い氏族に与えられた、王権内の格式を示す身分階級称号のことで、八色の姓(やくさのかばね)といわれ、天武天皇が684年(天武13年)新たに制定され、上位から真人(まひと)、朝臣(あそみ、あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓(かばね)のことである。
大神氏族のなかで、「朝臣」(あそみ)の称号を賜ったのは、三輪高市麿(みわたけちまろ)(飛鳥時代の人物で、氏は大三輪、大神ともいう)、同安麿、同狛麿、同仲江麿、同全雄、同良臣らの6人である。
本来はオオミワと読むべきだが、九州ではオオカミと読むのがオオガと読まれてきたという。
宇佐大神氏は官社八幡宮を創祀(そうし)した大神比義(おおがのひぎ)を祖とする。創祀のときは祝(はふり)、主神(かんつかさ)であったが、奈良時代末に禰宜(ねぎ)、祝、大宮司(だいぐうじ)を出しこれが続いた。平安初期には禰宜、大宮司を独占し、末期には宇佐氏に大宮司を譲り、これが近世まで続いた。
一族は筑紫や豊後地方におり大神郷を治めているが「おおが」と読まれており、同じ読み方をするここ四御神の大神郷(おおがきょう)も関連性は無視できないが、はたして山陽の大神郷の領主はどの大神朝臣なのであろうか?
◆ 奈良県大神神社と大神氏
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遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神に同じ)が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮め、大物主神(おおものぬしのかみ)の御名をもって祀られたのが大神神社のはじまりと伝えらる。 それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、わが国最古の神社としても知られている。また、大三輪之神(おおみわのかみ)として、大三輪に対して大神の文字を当て、神様の中の大神様として尊崇を受け、古来より、朝野の崇敬殊に篤かった。 |
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| 【三本杉】 |
| 【荒魂・和魂】 荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。 荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。 荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。 和魂はさらに幸魂(さきたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。 荒魂・和魂・幸魂・奇魂を総称して四魂(しこん)といい、一つの霊に四つの魂があるということで一霊四魂という。 |
| また、神体山である三輪山は全山が杉・松・檜等に覆われ、円錐型の秀麗な山である。千古より斧鉞を入れず、山中には苔むした神の憑代である奥津・中津・辺津磐座が現存している。特に山の中心をなす杉は「三輪の神杉」と称え、神聖視されている。杉の葉で丸く作られた「しるしの杉玉」は酒屋の標示として用いられ、酒造家の尊崇も篤い。いまでも、酒屋に行くと軒先に杉玉が下げられている光景に出会うことが多い。 ●大神氏には上掲した「三本杉」の他に、「丸の内三つ輪」という独特な神紋も用いられている。 |
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| 【丸の内三つ輪】 |
| ◆「四御神」という名称について一考 岡山市史は『四御神村の村名はこの神社によったものである。』、 岡山市地名辞典には『地名の由来は、古社大神神社が、「延喜式」神名帳に「大神神社四座」と記されていることによる。』 と説明されているだけである。 文字どおり、「4人の神」を意味するものであれば、大物主神と大穴牟遅神とは同一人物だから、神は3人となる。 延喜式神名帳によれば「大神神社四座・柿本神社、梨本神社」とある。 「四座」(しざ)とは、大神神社境内全体をさす意味であるから、柿本、梨本両神社を含めて3つの神社でしかない。「土師宮」は大神神社と改称したか合祀したものである。 ならば「4つの御神」とはなにを指すのか疑問が残るし、どちらをとってみても説得力に欠ける。 前記【荒魂・和魂】の項で説明のとおり、 『荒魂・和魂・幸魂・奇魂を総称して四魂(しこん)といい、一つの霊に四つの魂があるということで一霊四魂という。』 この考え方から引用されたものではないだろうかと考える。 この説を前記にあてはめてみると、この大神神社固有のものにはならないが、説明がつくのではないだろうか? そして、奈良県大神神社からの分祠を考えれば、主神は自らの御魂(幸御魂・奇御魂)を三輪山に鎮めたという大物主命であり、配神には同じ神ではあっても大穴牟遅神、 いつも行動を共にし神聖なる三輪山(大神神社)への創祠のきっかけとなった少毘古那神、 また、心遣いをしたであろう皇后の三穂津姫神をお祀りしたものと考えるのが自然である。 こうであれば、大物主神と大穴牟遅神とは同一人物だから、神は3人!といっても理解できるのではないだろうか。 |

● 大鳥居
本社(大神神社)から南に馬場道(参道)を約6町(約650m)のところに大鳥居が建っている。
そこには、東西にはしる官道(中世の山陽道)が通っているところで、このあたり一帯は古代の条理制により、きれいに区画された圃場で、備前平野の中の美田を有するところであった。
今の大鳥居は江戸中期後半〔天保2年(西暦1831年・皇紀2491年)〕に建立されたものだが、文献によるとなかなか壮観なものであったらしい。
鳥居には「天保2年辛卯(かのとう)四月吉日」と刻まれている。辛卯の干支で表現されており、現代風に表すと西暦1831年2月ということになる。これ以前のものは不明だが、備前国府市場に備前国庁が設置され、中世の山陽道として機能していた時代にも荘厳な大鳥居があったであろうと推定する。
戦後、このあたり一帯は著しく発展を遂げ、車社会の到来とあいまって参道の道路改良・舗装を行うこととなり、鳥居の移転をやむなくとなった。
鳥居は参道の中心に位置していたが、車の往来と参道として両立させるため、位置を東へ数メートル移動するにとどめ、現在の姿がある。移動工事を記念する石標には「大神神社大鳥居移転 昭和60年1月吉日」と印されている。
● 狛犬
大鳥居の前に、備前焼で作られた大型の狛犬がある。
狛犬(こまいぬ)とは、神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿正面の左右などに1対で置かれている、犬に似た想像上の獣の像である。なお、厳密には、後述のように「獅子・狛犬」と呼ぶのが正しいとされている。
名称は高麗(こま、つまり異国または朝鮮)の犬という意味とされている。これは朝鮮経由で入ってきたためであり、実際の起源はインドという説が有力。元々は獅子の形をしていたが当時の日本人はそれを知らなかったため犬と勘違いしたと思われている。
一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角(つの)はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、1対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は、左右共に角が無い物が多く、これらは本来は「獅子」と呼ぶべきものである。
狛犬は中国や韓国にも同様の物があるが、阿吽(あ・うん)の形があるのは日本で多く見られる特徴である。これは仁王の影響を受けたと考えられ平安時代には既に定着していた。ただし、日本の狛犬は近世から現代にかけて、各地の神社に膨大な数が造られており、形態にもさまざまなバリエーションがある。例えばイノシシや龍、キツネの形の像が同様の役割を果たしていることもあり、これらをあわせて神使(しんし)と呼ぶ。この神使は神社(祀られる神)によって特定の動物が採用されている場合が少なからずあり、稲荷神社に狐、春日神社に鹿、弁財天には蛇などが代表的な物である。
一般的には、守るべき神社に背を向ける形で置かれるが、まれに神社の方を向いている物もある。
左右の狛犬をして夫婦であると主張する神社も存在する。「狛犬が獅子の姿形をしている以上、たてがみを持つのは当然雄である。つまり、狛犬同士がつがいとなることはあり得ないため、生物学的にはこの主張は誤り」とする見解がある一方で、「子狛犬あるいは子獅子をあやしているものや授乳しているものもあるため、夫婦で正しい」とする見解もある。厳密に正しい・正しくないで争うことに意味はないが、夫婦肯定説・夫婦否定説の両説があるということは言える。
● 境内配置図

| 古文書 | 沖津宮 | 中津宮 | 辺津宮 |
| 日本書紀本文 | 田心姫 | 湍津姫 | 市杵嶋姫 |
| 日本書紀一書 | 瀛津嶋姫 | 湍津嶋姫 | 田心姫 |
| 日本書紀一書 | 瀛津嶋姫=市杵嶋姫 | 湍津嶋姫 | 田霧姫 |
| 宗像大社伝 | 田心姫神(沖津宮) | 湍津姫神(中津宮) | 市杵島姫神(辺津宮) |