● 祭神

           ・拝画  大神神社四柱の拝画(北嶺作画)が拝殿に掲げられている。

             拝画向かって右から
                
○大物主神  ○三穂津姫神  ○大穴牟遅神  ○少毘古那神

   ★ 大国主命 [オオクニヌシノミコト]
              別名 = 
大物主神(オオモノヌシノカミ) ・ 
                     大穴牟遅神(オオナムチノカミ)
 ・ 
                     葦原色許男神(アシハラシコノオノカミ) ・ 
                     八千矛神(ヤチホコノカミ) ・
                     宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ) ・ 
                     国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト) ・
                     三穂津彦大神(ミホツヒコノオオカミ) ・ 
                     御蔭大神(ミカゲノオオカミ)   
          ○性別  ♂          
          ○系譜  素盞鳴尊(スサノヲノミコト)の六世の孫。
                 沼河比売神、奥津島比売神など多くの女神と結婚。
                 子は阿遅鋤高日子根神、事代主神建御名方神など181神
          ○神格  国作りの神(文化神)、農業神、商業神、医療神

 大国主命は、いわずとしれた日本の神様の中のスーパースターである。出雲大社の縁結びの神様で、有名な「因幡の白
兎」の話の主役、あるいは七福神の大国様だということは誰でも知っているだろう。さらに、出雲神話の主役で、全国の国津
神の総元締めみたいな存在である。英雄神としては、素盞鳴尊やギリシャ神話の英雄のように怪物退治といった派手なこと
はやっていないが、少彦名神とコンビを組んで全国をめぐって国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病気治療
、医薬の普及、禁厭の法則を制定、といった数々の業績を残した偉大な神であることも知られている。
 大国主命の複雑な魅力のポイントは、全体のイメージがなかなかつかみにくいところにあるといっていいだろう。
もっとも我々を悩ますのがその名前である。「日本書紀」の一書には、「大国主命、なたの名を大物主神、または国作大己
貴命と号す。または葦原醜神という。または大国玉神という。または顕国玉神という」とある。
 複数の名前を持つ神は、多くの神様がいる日本では珍しくもないが、それにしてもこの神ほどいろいろな呼び方をされる神
はいない。プラスに考えれば、ちょっとばかり失礼であるが、美男子で妙に多くの名前を使い分けたりするのは、俗世間では
詐欺師かそのたぐいの怪しい商売をしている輩と相場が決まっている。そういう危ないイメージを膨らませてくれるところが、
この神の面白味でもある。

 ※ 禁厭の法則 = 神仏や神秘的なものの威力を借りて、災いや病気を取り除いたり、他人に災いを与えたりすること。
             禁厭(まじない、きんえん)とは、日本在来の呪術(じゅじゅつ)のことで、神道では大国主命と少彦名神
             を禁厭の祖神としている。   


   
★ 三穂津姫神 [ミホツヒメノカミ]
                 別名 =  多紀理姫(タキリヒメ) ・ 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)
          ○性別  ♀
          ○系譜  高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の子。 大国主命に嫁ぎ后神
          ○神格  稲作の神、縁結びの神

 三穂津姫命は高天原の斎庭の稲穂を持って地上に降り、農耕を勧めた。御種を受けるということから安産守護の御神徳
は特に著しい。
 稲穂は五穀の第一である米を意味するは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごとくの生命カを表現して
いる。 従って大神は人間はいうに及ばず、一切の生物の生命力を主宰せられる大神である。 故に古人はその御種につい
て、「これを頂いて帰り、時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯(もち)でも粳(うるち)でも願望のものが出来る。・・・・・ 」と
感嘆しているが、田植後には農家の人達の農穣祈願のお参りが盛んであり、島根県の美保神社では十二月三日に行う
諸手船(もろたぷね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいい、農穣感謝の意味もあって一般の参拝がすこぶる多い。


  
 ★ 少彦名神 [スクナヒコナノカミ]
                別名 =  
少毘古那神 [スクナヒコナノカミ]
          ○性別  ♂
          ○系譜  造化三神(ゾウカノサンシン)の神産巣日神の子
          ○神格  国土経営の神、医薬神、酒神、温泉神

 少彦名神は、海の向こうの常世の国から光り輝きながらやってきた小人神である。日本神話の中の人気者であり、中世の
「日本霊異記」の道場法師や近世の御伽草子の一寸法師などの「小さ子」のルーツとされている。その人気の秘密は、
小人神でありながら国造りという大きな仕事を成し遂げるという、サイズとスケールの関係の飛躍制にある。
 さらにその性格は明るく、いたずら者でユーモラス。しかも豊かな技術と知識と優れた知恵を備えている。力ではなく、
持ち前の知恵を働かせて困難を見事に克服して見せるという独特なヒーロー性も見逃せない。
 大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、波頭を伝わって天の羅摩船(カガミブネ=ガガイモの穀でできた船)に乗り
鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て表れた。不思議の思った大国主命が家来の神に尋ねたが、誰もその正体を知らなかった。
そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」というのでクエピコに聞くと
「神高巣日神の御子で少彦名神です」と答えた。そこで大国主命が出雲の祖神である神高巣日神に伝えると、神jは「これは
私の掌の股からこぼれた子である。これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」と二神に申し渡した。
 こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行い、その任務を果たしたのちに再び常世の国
に帰っていくのである。

【祭神】
 祭神(さいじん)とは、ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉である。
現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としているか、日本神話の神と同神であるとしている。
元々神道は海・山・川などを神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。記紀や万葉集などでも、祭神の名が記されているのは伊勢神宮、住吉神社などごくわずかであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座地名や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていた。延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。
10世紀ごろから、それまでの氏神・地主神としての性格だけでなく、火の神・水の神・木の神などの具体的な神徳・機能が附加されるようになり、祭神も、その神徳に合わせて地名・社名から日本神話に登場する神、あるいは「命」「彦」「比売」などをつけた人格的な神に移行するようになった。また、稲荷・八幡などの有力な神を勧請してそれを主神とすることも広く行われた。

【主神・配神】
 通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)・配祀神(はいししん)・相殿神(あいどのしん)などという。
祭神を主神・配神に分けるのは、明治時代に官国幣社で行われるようになったのに始まるものであるが、「主神とそれ以外の神」という観念はそれ以前からあり、「前」、「相殿神」などと呼ばれていた。配神は通常は主神に縁のある神であるが、その他様々な経緯により共に祀られるようになった配神もある。主神と同時に祀られるようになった配神もあれば、後で加えられた配神もある。中には、元々は配神であったのが、後に主神に取って変わったものもある。明治時代の神社合祀により、多くの配神を祀ることになった神社もある。
相殿(あいどの。合殿とも書く)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指す。「相殿神」とは相殿に祀られる神のことであるが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神という。

● 祭日

   ・ 春祭   5月第二日曜日
   ・ 秋祭  10月第三土曜日と翌日の日曜日 


● 由緒 

 本社は延喜式神名帳(西暦927年に選上された、平安時代の中頃のこと)に備前国26座のうち大神神社四座(オオガジンジャシザ)と記載されている由緒ある神社です。創建については明らかではありませんが奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)の御分神を大神朝臣という人が此の地に奉祀したものといわれています。 
 ここ大神神社境内に表示されている由緒が上記の通りである。
大神神社四座(オオガジンジャシザ)とは座中全体をさす意味から、延喜式神名帳が発刊された当時から、ここ土師の森境内に鎮座している「梨本神社」「柿本神社」とともに、大神神社の旧名である「土師宮」とあわせて神名帳に登載されたものと思われ、これらの末社(または摂社)とともに、いわゆる政府に認められた神社といえよう。
 備前国総社神名帳にも、やはり『大神神社四座(柿本神社・梨本神社)』と記されている。
 「四御神村」の村名は、この神社によったものである。
上道郡式内式外14社中もっとも上位におかれた神社で、中世には神官不在の神社が多かったが、大神神社は、「右壱処在神祇官」と神名帳にしるしてある。 旧四御神村一円の氏神。
 ※ 「神祇官」(しんじかん)は律令制において神祭をつかさどる官職で、位は太政官と並び、祭祀にあたっては太政官を指揮したが一般行政事務については太政官の下位にあった。 
 同社は、もと四御神の背後にある惣堂山の上に祀っていたので、神社の書上に次のような記録がある。

「上道郡四御神村大神々社式内神ニ御座候而先年大和国三輪ノ御共ニ而四御神ノ山ニ御鎮座申由ニ候、今宮跡御座候、爾後神妙之儀御座候而今之処ニ御鎮座ト申伝最モ縁起神宝等申物焼失、慶長元年中ノ書付御座候 (以下略)」とあり、慶長年間の社領は一町七段八畝九歩、高三十一石二斗四升七合と書き付けに残っている。


◆大神神社 旧跡地(旧土師宮)について一考
 惣堂山は、岡山市史によると備前車塚古墳の有する山か竜之口山の周辺とみられる。
旧社の位置を示す石標により北へ1300mを地図上で計測すると、直線では竜之口山頂(およそ北北西に向く)、及び真北には竜之口東山頂の廃寺跡にピタリとあう。
東山頂には廃寺跡があることから説得力があるし、惣堂山となると竜之口山頂付近であろうが、どちらにあろうと違和感はない。 
備前車塚古墳築造後、やはりこの地域の首長の墓と云われる宍甘山王山古墳には、「山王社」をお祀りしているがごとく、車塚古墳には築造後「大神社」をお祀りしたのであろうか?
前記のとおり、社殿の焼失を契機として現在地の土師の森に移築したのであろうか? 
いずれにせよ、竜之口山付近にその痕跡が発見されないかぎり、東山頂の廃寺跡が旧土師宮であったと思いたい。
昭和2年に石標が建立されたときには、その旧跡地が特定されていたのだろうか?

   
 大神神社現在地よりおよそ
100m南に古代の名残を示す
旧土師宮の位置石標

<昭和2年5月建立>
【 延喜式とは? 】
 
国宝: 「養老律令」の施行細則を集大成した古代の法典
『延喜式』(エンギシキ)は、醍醐天皇の命により延喜5年(905)、藤原時平ほか11名の委員(藤原定国、藤原有穂、平惟範、紀長谷雄、藤原菅根、三善清行、大蔵善行、藤原道明、大中臣安則、三統理平、惟宗善経)によって編纂を開始したから「延喜の式」だ。この延喜5年という年は、勅撰集第1番目の『古今和歌集』の編纂が開始された(一説に、出来た)年でもある。
さて、式は延長5年(927)、藤原忠平ほか4名が奏進する。その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967)に施行された。全50巻。条数は約3300条で,神祇官関係の式(巻1~10)、太政官八省関係の式(巻11~40)、その他の官司関係の式(巻41~49)、雑式(巻50)と、律令官制に従って配列されている。

 ※ 延喜式神名帳 = 延喜式の第9巻・10巻が神名帳にあたる。

【 大宝律令と養老律令】
◇ 大宝律令  大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭に制定された日本の律令である。
 
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。  大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。
   ※ 現代風に表現すると     律=刑法  令=行政法・民法
◇ 養老律令  養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本の中央政府が757年(天平宝字1)に施行した基本法令。
 701年(大宝1)、藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立したが、その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた。ところが、720年(養老4)の藤原不比等の死により律令 撰は一旦停止することとなった(但し、その後も改定の企てがあり、最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある)。その後、孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。
 構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済 状況と齟齬をきたし始め、平安中期までにほとんど形骸化した。
 形式上は明治維新で廃止されるまで約1100年間存在し続け、日本史上最長の歴史を持つ明文法令である。

神々の系譜や国内神名帳について詳しい、サイトのご紹介をしておきます。

社殿構成 権現造 吹放の建物で
四棟が縦に並
ぶ荘重な社殿
構成である。
本殿 一間社流造檜皮葺
弊殿 三間二面入母屋造本瓦葺
釣殿 梁間二間桁行三間両流造本瓦葺
拝殿 三間二面入母屋造本瓦葺
随身門 三間一戸


 この大神神社は、「大物主神、大穴持神、少毘古那神、三穂津姫神の四柱を祭神とする
旧郷社、」と、岡山市史で説明されている。 

6世紀中葉、欽明天皇(540~571)の時代、後の律令制の実験場ともいえる新しいシステムを、国造制(くにのみやつこせい)、屯倉制(みやけせい)、部民制(べのたみせい)として大和王権による支配を一層強め吉備の国を統治するために実施していく。
とりわけ部民制にあっては、皇族や有力豪族が地域の民を組織した「地域集団」あるいは「職業集団」を作った。
天皇に直轄する部民、軍事に関わる部民、行政に関わる部民、生産に関わる部民に分けられ、生産に関わる部民には、海部(あまべ)、鳥取部(ととりべ)、服部(はとりべ)、錦織部(にしきおりべ)、弓削部(ゆげべ)、鞍作部(くらつくりべ)、土師部(はじべ)、須恵部(すえべ)、山守部(やまもりべ)、伊福部(いふくべ)などと区分され、地域の生産物や貢納品などを上納した。
土師という地名はあちこちに残されているが、ここ土師の森(現在の四御神)も、土師部の集団であったであろうか、この頃(6世紀頃)は土師村と称していた。それまでは大神村(又は、御神村・大領村)いずれも ”オオガムラ”と称していたと伝えられている。

 大神村は「大神郷」(おおがきょう、おおみわきょう)といわれ、大神氏の領地であったと思われる。
大神(おおみわ)氏は大和国に興り、大神(おおみわ)神社を祀る氏族で全国的に勢力をのばした。『和名類聚抄(和名抄)』によると 、大神郷などは、畿内3、東海2、
山陽1、西海道2カ所とあり、畿内以西で瀬戸内に接したところが多いと大神氏族の研究者は指摘する。
由緒の項で説明されている「奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)の御分神を大神朝臣という人が此の地に奉祀したものといわれています。」の説明はうなづける。
ところが、大神朝臣という人物は、大神一族のなかに分かっているだけで6人が存在する。

”朝臣(あそみ)”というのは、壬申の乱の後、大王(天皇)への忠誠心の強い氏族に与えられた、王権内の格式を示す身分階級称号のことで、
八色の姓(やくさのかばね)といわれ、天武天皇が684年(天武13年)新たに制定され、上位から真人(まひと)、朝臣(あそみ、あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓(かばね)のことである。

大神氏族のなかで、「朝臣」(あそみ)の称号を賜ったのは、三輪高市麿(みわたけちまろ)(飛鳥時代の人物で、氏は大三輪、大神ともいう)、同安麿、同狛麿、同仲江麿、同全雄、同良臣らの6人である。

 本来はオオミワと読むべきだが、九州ではオオカミと読むのがオオガと読まれてきたという。
宇佐大神氏は官社八幡宮を創祀(そうし)した大神比義(おおがのひぎ)を祖とする。創祀のときは祝(はふり)、主神(かんつかさ)であったが、奈良時代末に禰宜(ねぎ)、祝、大宮司(だいぐうじ)を出しこれが続いた。平安初期には禰宜、大宮司を独占し、末期には宇佐氏に大宮司を譲り、これが近世まで続いた。

一族は筑紫や豊後地方におり大神郷を治めているが「おおが」と読まれており、同じ読み方をするここ四御神の大神郷(おおがきょう)も関連性は無視できないが、はたして山陽の大神郷の領主はどの大神朝臣なのであろうか? 

    
  

◆ 奈良県大神神社と大神氏

 遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神に同じ)が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮め、大物主神(おおものぬしのかみ)の御名をもって祀られたのが大神神社のはじまりと伝えらる。
 それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、わが国最古の神社としても知られている。また、大三輪之神(おおみわのかみ)として、大三輪に対して大神の文字を当て、神様の中の大神様として尊崇を受け、古来より、朝野の崇敬殊に篤かった。
【三本杉】
【荒魂・和魂】
 
荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
 荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
 荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
和魂はさらに
幸魂(さきたま、さきみたま)奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
荒魂・和魂・幸魂・奇魂を総称して四魂(しこん)といい、一つの霊に四つの魂があるということで一霊四魂という。

 大神神社が鎮座する大和三輪の地は、古代日本文化発祥の地であり、政治・経済・文化の中心地でもあった。三輪山山麓を東西に流れる初瀬川の近くに、日本最古の市場である海柘榴市が八十のちまたとして開け、山麓を南北に走る日本最古の道「山の辺の道」とともに交通の要所となっていた。
 天平神護元年(765)には神封百六十戸を寄せられ、貞観元年(859)には正一位を賜った。延喜の制では名神大社に列せられ、祈年・月次・相嘗・新嘗祭には案上の官幣に預かり、また祈雨の幣にも預かった。大和一の宮となり、二十二社の中では第九位を占め、終始朝廷の厚い殊遇を受けた。
 江戸時代には、朱印地六十石のほか、大神神社に関係する神領百十五石を有した。
 祭神は大物主大神であり、配祀に大己貴神・少彦名神(すくなひこなのかみ)がある。
 三輪の神、大物主神について、文献における初見は、 『古事記』である。それによれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、 独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光して依り来る神」が あった。そ榴の神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。
 つまり、大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、 三輪の神であり、大神神社であることはいうまでもない。
 続いて、同じ『古事記』の神武天皇の段に、三輪の神は「大物主神」であることが記されている。また『日本書紀』には、同じ内容のことが書かれ、大国主神の別名である大己貴神が、協力者の少彦名神がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂・奇魂」であると言い、「日本国の三諸山に住みたい」と答える。 そして「この神が大三輪の神である」と記している。続いて『日本書紀』の崇神天皇八年に、大田田根子が三輪君族の始祖であり、三輪の神が大物主神であることが示されている。
 また、神体山である三輪山は全山が杉・松・檜等に覆われ、円錐型の秀麗な山である。千古より斧鉞を入れず、山中には苔むした神の憑代である奥津・中津・辺津磐座が現存している。特に山の中心をなす杉は「三輪の神杉」と称え、神聖視されている。杉の葉で丸く作られた「しるしの杉玉」は酒屋の標示として用いられ、酒造家の尊崇も篤い。いまでも、酒屋に行くと軒先に杉玉が下げられている光景に出会うことが多い。

●大神氏には上掲した「三本杉」の他に、「丸の内三つ輪」という独特な神紋も用いられている。
丸の内三つ輪
 大神神社の大神主家は、大神姓で三輪氏であった。中世に至って、高宮氏と改めている。その祖は大国主命といい、大田々根子命の後裔と伝える。崇神朝に大神君姓を賜り、のちに三輪君に改め三輪氏を称するに至ったという。さらに降って、天武天皇八年高市麻呂のときに三輪君を改めて大神朝臣姓を賜った。高市麻呂の子忍人が大神大神主となり、かれの子孫が大神主を世襲した。
 系図の注記によれば、南北朝期の大神主家一族は、南朝方に尽くしたことが知られる。南北朝の内乱期になると、神官であっても兵馬の道を避けることはかなわなかったことがうかがわれる。ときの大神主勝房は、南朝方に伺候し、子の神二郎信房は阿倍野の戦いで討死している。信房の子為方も南朝に属しその子信重は北山御所に伺候し、子孫は伊勢北畠氏に属した。勝房の曾孫保房は高宮氏を称し、吉野北山で自害、その子神山四郎冬房も南朝として北山御所に仕えた。孫の神山徳房は伊勢南朝方の北畠氏に属し、伊勢で討死した。このように、一族の多くが南北朝の内乱に際して非業の死を遂げている。
 室町期以降は、嫡流は大神主として神事を務めたが、一族には武士となり、三好氏・北畠氏などに仕えている者もいた。大神主家は保房憩以降、高宮氏を名乗り、大神神社に奉仕し、子孫連綿して明治維新に至った。
 大神氏の一族としては、古代、宇佐八幡神を斎いた比義が知られている。その子孫は、宇佐神宮大宮司をつとめ、やがて、宇佐氏にとって替わられるまで長くその職を世襲した。また、九州大神氏としては、豊後介大神朝臣良臣の後裔を称する豊後の大神氏が知られ、その子孫からは、緒方・大野・阿南など中世武士が分出し、戦国時代には鎮西の戦国大名大友氏の軍事力の一翼を担っている。


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◆「四御神」という名称について一考 
 岡山市史は『四御神村の村名はこの神社によったものである。』、 岡山市地名辞典には『地名の由来は、古社大神神社が、「延喜式」神名帳に「大神神社四座」と記されていることによる。』 と説明されているだけである。
文字どおり、「4人の神」を意味するものであれば、大物主神と大穴牟遅神とは同一人物だから、神は3人となる。
延喜式神名帳によれば「大神神社四座・柿本神社、梨本神社」とある。 「四座」(しざ)とは、大神神社境内全体をさす意味であるから、柿本、梨本両神社を含めて3つの神社でしかない。「土師宮」は大神神社と改称したか合祀したものである。
ならば「4つの御神」とはなにを指すのか疑問が残るし、どちらをとってみても説得力に欠ける。  

 前記【荒魂・和魂】の項で説明のとおり、 『荒魂・和魂・幸魂・奇魂を総称して四魂(しこん)といい、一つの霊に四つの魂があるということで一霊四魂という。』 この考え方から引用されたものではないだろうかと考える。  
この説を前記にあてはめてみると、この大神神社固有のものにはならないが、説明がつくのではないだろうか?
そして、奈良県大神神社からの分祠を考えれば、
主神は自らの御魂(幸御魂奇御魂)を三輪山に鎮めたという大物主命であり、配神には同じ神ではあっても大穴牟遅神、 いつも行動を共にし神聖なる三輪山大神神社)への創祠のきっかけとなった少毘古那神、 また、心遣いをしたであろう皇后の三穂津姫神をお祀りしたものと考えるのが自然である。
こうであれば、大物主神と大穴牟遅神とは同一人物だから、神は3人!といっても理解できるのではないだろうか。

● 大鳥居

 本社(大神神社)から南に馬場道(参道)を約6町(約650m)のところに大鳥居が建っている。
そこには、東西にはしる官道(中世の山陽道)が通っているところで、このあたり一帯は古代の条理制により、きれいに区画された圃場で、備前平野の中の美田を有するところであった。
今の大鳥居は江戸中期後半〔天保2年(西暦1831年・皇紀2491年)〕に建立されたものだが、文献によるとなかなか壮観なものであったらしい。
鳥居には「天保2年辛卯(かのとう)四月吉日」と刻まれている。辛卯の干支で表現されており、現代風に表すと西暦1831年2月ということになる。これ以前のものは不明だが、備前国府市場に備前国庁が設置され、中世の山陽道として機能していた時代にも荘厳な大鳥居があったであろうと推定する。 
 戦後、このあたり一帯は著しく発展を遂げ、車社会の到来とあいまって参道の道路改良・舗装を行うこととなり、鳥居の移転をやむなくとなった。
鳥居は参道の中心に位置していたが、車の往来と参道として両立させるため、位置を東へ数メートル移動するにとどめ、現在の姿がある。移動工事を記念する石標には「大神神社大鳥居移転 昭和60年1月吉日」と印されている。


● 狛犬

 大鳥居の前に、備前焼で作られた大型の狛犬がある。
狛犬(こまいぬ)とは、神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿正面の左右などに1対で置かれている、犬に似た想像上の獣の像である。なお、厳密には、後述のように「獅子・狛犬」と呼ぶのが正しいとされている。
名称は高麗(こま、つまり異国または朝鮮)の犬という意味とされている。これは朝鮮経由で入ってきたためであり、実際の起源はインドという説が有力。元々は獅子の形をしていたが当時の日本人はそれを知らなかったため犬と勘違いしたと思われている。

 一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角(つの)はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」角のある方の像を「狛犬」と言い、1対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は、左右共に角が無い物が多く、これらは本来は「獅子」と呼ぶべきものである。

 狛犬は中国や韓国にも同様の物があるが、阿吽(あ・うん)の形があるのは日本で多く見られる特徴である。これは仁王の影響を受けたと考えられ平安時代には既に定着していた。ただし、日本の狛犬は近世から現代にかけて、各地の神社に膨大な数が造られており、形態にもさまざまなバリエーションがある。例えばイノシシや龍、キツネの形の像が同様の役割を果たしていることもあり、これらをあわせて神使(しんし)と呼ぶ。この神使は神社(祀られる神)によって特定の動物が採用されている場合が少なからずあり、稲荷神社に狐、春日神社に鹿、弁財天には蛇などが代表的な物である。

 一般的には、守るべき神社に背を向ける形で置かれるが、まれに神社の方を向いている物もある。

 左右の狛犬をして夫婦であると主張する神社も存在する。「狛犬が獅子の姿形をしている以上、たてがみを持つのは当然雄である。つまり、狛犬同士がつがいとなることはあり得ないため、生物学的にはこの主張は誤り」とする見解がある一方で、「子狛犬あるいは子獅子をあやしているものや授乳しているものもあるため、夫婦で正しい」とする見解もある。厳密に正しい・正しくないで争うことに意味はないが、夫婦肯定説・夫婦否定説の両説があるということは言える。




● 境内配置図


     ◆ 末社

◇ 柿本神社(かきもとじんじゃ) 

   ★ 祭神    ○ 事代主神(ことしろぬしのかみ)♂

                 別名=八重事代主命 ・  積羽八重(みつはやえ)事代主神  ・
                     恵比寿大神 ・  一言主神
                 系譜=大国主神の子
                
神格=海の神、託宣神、商業神  

             ○ 柿本明神(かきもとみょうじん)
                 別名=柿本人麿

◇ 梨本神社(なしもとじんじゃ)  

   
★ 祭神    ○ 味須岐高毘古事禰神(あじすきたかひこねのかみ)♂
                 別名=味耜高彦根神 ・ 阿遅?高日子根神 ・ 
                     阿遅志貴高日子根神 ・ 阿治志貴高日子根神 ・
                     賀茂大神(迦毛大御神) ・ 葛城迦毛大神 
                 系譜=大国主神の子(多紀理比売命の間に生まれた)
                
神格=農耕の神、鍬(鋤)の神、雷の神、不動産業の神

             ○ 梨本(梨子本)明神(なしもとみょうじん)   

◇ 御崎宮(おんざきぐう) 

   
★ 祭神    ○ 猿田彦神(さるだひこのかみ)♂
                 別名=猿田毘古神  ・ 猿田毘古大神 ・ 猿田毘古之男神
                 系譜=天孫降臨に登場する神
                
神格=導き(道案内)の神、伊勢の地主神   

◇ 稲荷神社(いなりじんじゃ)

   
★ 祭神    ○ 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)♂
                 別名=宇伽之御魂神(うかのみたまのかみ) ・ 稲荷神(いなりのかみ) ・ 
                     大物忌神(おおものいみのかみ) ・ 御食津神(みけつのかみ) ・ 
                     三狐神(みけつかみ)
                 系譜=スサノオの命の子、大年神の弟
                
神格=五穀をつかさどる食物の神(穀霊神)、稲の生育の神、
                     農業の神、商工業の神
 

◇ 八幡社(はちまんしゃ)

   ★ 祭神    ○ 応神天皇(おうじんてんのう)♂  
                別名=八満神 ・ 誉田別尊(ほんだわけのみこと) ・
                     大鞆和気命(おおともわけのみこと) ・
                     品陀和気命(ほんだわけのみこと) ・ 八満大菩薩
                系譜=第15代天皇、第14代仲哀天皇と神功皇后の子
                
神格=武神、文教の祖神 

◇ 天満宮(てんまんぐう)

   
★ 祭神    ○ 菅原道真(すがわらのみちざね)♂
                 別名=天神様、天満大自在天神(テンマダイジザイテンジン)、
                      日本太政威徳天(ニホンダジョウイトクテン)、
                      火雷天神(カライテンジン)
                 系譜=平安時代の公家で学者、文人、政治家
                      宇多天皇(第59代天皇)に重用され右大臣にまで昇るが、
                      左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)(陰口などでそそり訴えること)され、
                      九州の筑前国の太宰府に大宰権帥(だざいごんのそち)として、
                      つまり太宰府の副司令官として左遷され、そこで没した。 
                
神格=学問の神、文化の神

◇ 木之山神社(きのやまじんじゃ)


   
★ 祭神    ○ 大山祇命(おおやまづみのみこと)
                 別名=大山津見命 ・ 大山積命、和多志大神、酒解神
                 系譜=日本神話に登場する神。
                     神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた。
                     その後、野の神である鹿屋野比売神(カヤノヒメ、野椎神)との
                     間に以下の四対八神の神を生んでいる。
                
神格=山の神、海の神、酒造の神、酒解神、軍神、武神

◇ 若宮社(わかみやしゃ)

   
★ 祭神    ○ 太田多泥古命(おおたたねこのみこと)
                 別名=太田多根子命
                 系譜=大国主命の八代孫にあたる。
                     後の三輪氏、大神氏の祖であり、若宮とも呼ばれていた。 
                
神格=    

◇ 宗像神社(むなかたじんじゃ)

   ★ 祭神    ○ 宗像三女神(むなかたさんじょじん)♀
                
  三神=①沖の島の沖津宮→多紀理毘売(たきりひめ)
                     別名=奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)
                   ②大島の中津宮  →
市寸島比売命(いちしきまひめのみこと
                     別名=狭依毘売命(さよりびめみこと)
                   ③田島の辺津(へつ)宮→
多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
                   以上が「古事記」に表記されているもので、「日本書紀」には次の
                   とおり記されているのでまとめておきます。
古文書 沖津宮 中津宮 辺津宮
日本書紀本文 田心姫 湍津姫 市杵嶋姫
日本書紀一書 瀛津嶋姫 湍津嶋姫 田心姫
日本書紀一書 瀛津嶋姫=市杵嶋姫 湍津嶋姫 田霧姫
宗像大社伝 田心姫神(沖津宮) 湍津姫神(中津宮) 市杵島姫神(辺津宮)
                  ※ この三社を総称して宗像神社(むなかたじんじゃ)と呼んでいる。   
                 系譜=宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の
                     総称である。
                     「古事記」には、「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く、
                     三前の大神なり」とあり、胸形氏ら海人集団の祭る神であった。 
                
神格=海の神、海産、生産、出産、運送、方除けの神、
                     五穀豊穣、家内安全、交通安全
 

◇ 水天宮(すいてんぐう) 

   ★ 祭神    ○ 天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)♂ ・ 安徳天皇 (あんとくてんのう)♂
               ・ 高倉平中宮 (たかくらたいらのちゅうぐう)♀ ・ 二位の尼 (にいのあま)♀   

                 別名=天御中主神=特になし
                     安徳天皇(第81代天皇)=言仁(ときひと・ことひと)親王
                     高倉平中宮=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)
                     二位の尼=平時子(たいらのときこ) 
                 系譜=●天御中主神→・ 日本神話に登場する神(高天原に最初に出現した神)、
                               ・ 造化三神(ゾウカノサンシン)の一柱で、
                                 別天神(コトアマツカミ)五神の第一神 
                     ●安徳天皇→父は高倉天皇、母は平清盛の娘「徳子(後の建礼門院)」
                     ●高倉平中宮→高倉天皇(第80代天皇)の中宮、安徳天皇の生母
                     ●二位の尼→平清盛の正妻(位階は従二位で二位尼と称される。) 
                
神格=天御中主神→宇宙の根源神、高天原の最高司令神、
                              眼病の神、長寿、息災、招福。
                     水と子供の守護神、安産の神、子授けの神、子育て、
                     水難除け、農業、漁業、海運、水商売
  



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