温 羅 伝 説 ・ 桃 太 郎 伝 説


 最後段に、読みやすい文体の[温羅伝説の要約]
[温羅伝説の実態と背景]ついて掲載しました。


  温 羅 伝 説
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 崇神(すじん)天皇(第10代天皇・紀元前97〜30年)のころ、異国の鬼神(おにがみ)が飛行して吉備国にやってきた。彼は百済(くだら)の王子で名を温羅(ウラ・オンラ)ともいい吉備冠者(かんじゃ)とも呼ばれた。

彼の両眼は爛々(らんらん)として虎狼(ころう)の如く、蓬々(ぼうぼう)な鬚髪(ひげかみ)は赤きこと燃えるが如く、身長は一丈四尺にも及ぶ。膂力(りょりょく)は絶倫(ぜつりん)、性(しょう)は剽悍(ひょうかん)で凶悪であった。
彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、さらにその傍(かたわ)らに岩屋山(いわややま)に楯(たて)を構えて、しばしば西国から都へ送る貢船(みつぎぶね)や婦女子(ふじょし)を略奪したので、人民は恐(おそ)れ恐(おのの)いてこの居城を"鬼ノ城"と呼び、都に行ってその暴状(ぼうじょう)を訴えた。
 鬼ノ城(きのじょう)は岡山県総社市奥坂の鬼城山(標高397m)にのこる神籠石式山城。国指定史跡。

 動乱に明け暮れる7世紀後半の朝鮮半島で、百済に援軍をおくっていた日本は、663 年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。
 唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要がありました。鬼ノ城もそれらの一つとする考えが有力です。
鬼ノ城西門の画像を拡大表示 鬼ノ城角楼の画像を拡大表示
鬼ノ城西門 鬼ノ城角楼

朝廷は大いにこれを憂(うれ)い、武将を遣(つか)わせてそれを討(う)たしめたが、彼は兵を用いること頗(すこぶ)る巧(たくみ)で出没は変幻自在、容易に討伐し難(がた)かったので空しく帝都(ていと)に引き返した。

そこで、つぎは武勇の聞こえる孝霊(こうれい)天皇(第7代天皇)の皇子イサセリヒコノミコトが派遣されることになった。ミコトは大軍を率(ひき)いて吉備国に下り、まず吉備の中山(この山の東西の麓(ふもと)にそれぞれ備前と備中の吉備津宮が鎮座している)に陣を布(し)き、西は片岡山に石楯(いしたて)を築き立てて防戦の準備をした。
 今の倉敷市日畑西山(ひばたにしやま)の楯築山(たてつきやま)はその遺跡である。

 倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端,楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は,現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。墳丘頂部には5個の巨石が立っており,墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。
楯築神社跡地の画像を拡大表示 楯築山周辺の古墳群の画像を拡大表示
楯築神社跡地 楯築山周辺の古墳群

さて、いよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神(おにがみ)のことであるから、戦うこと雷霆(らいてい)の如くその勢いはすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐまれた。ことに不思議なのは、ミコトの発し給える矢はいつも鬼神(きしん)の矢と空中で噛(か)み合い、いずれも海中に落ちた。
 今も岡山市田中にある矢喰宮(やぐいのみや)はその弓矢を祀(まつ)っている。

 血吸川が足守川に合流するあたり、岡山市高塚にある。『吉備津宮縁起』によると、吉備津彦命の射た矢と、温羅の射た矢が空中でぶつかって落ちたところ、『鬼ノ城縁起』では吉備津彦命の矢と温羅の投げた石が当たって落ちたところとされる。さらに社伝では境内にある巨石は温羅が投げたもの、そばにはえている竹は、命の矢が根付いたものという。祭神は吉備武彦命。
矢喰神社と矢喰の岩(右)の画像を拡大表示 矢喰神社本殿の画像を拡大表示
矢喰神社と矢喰の岩(右) 矢喰神社本殿

ミコトはここに神力(かみちから)を現し、千釣(せんつり)の強弓(ごうきゅう)を以って一時(ひととき)に二矢を発射したところが、これはまったく鬼神(おにがみ)の不意をつき、一矢は前の如く噛み合うて海に入ったが、余す一矢は違(ちが)わず見事に温羅の左眼に当たったので、流るる血潮(ちしお)は混々(こんこん)として流水のごとくほとばしった。
 血吸川(ちすいがわ)はその遺跡である。

 鬼ノ城山から総社市赤浜あたりまで全長約8キロの河川。温羅伝説では、吉備津彦命の放った矢の一本が温羅の左目に命中した際、あふれる血で川が真っ赤に染まったと伝えられる。また、鉄穴流しの砂が流出して川床が赤くなったために名づけられたという説も。川床が高く、天井川になっていて、水が流れていないところもある。
血吸川上流の画像を拡大表示 血吸川の画像を拡大表示
血吸川上流 血吸川
【血吸川は東側におおきく迂回して鬼ノ城山の裏側(北側)に源がある。】   【正面(北西方向)山の頂には鬼ノ城を 望むことができる。】

さすがの温羅もミコトの一矢に辟易(へきえき)し、たちまち雉(きじ)と化して山中に隠れたが、機敏なるミコトは鷹(たか)となってこれを追いかけたので、温羅はまた鯉(こい)と化して血吸川(ちすいがわ)に入って跡をくらました。
ミコトはやがて鵜(う)となってこれを噛(か)みあげた。
 今そこに鯉喰宮(こいくいぐう)があるのはその由縁(ゆえん)である。

 温羅を祭るために村人達がここに鯉喰神社を建てたということですが、仁徳天皇が吉備津宮の末社の一つとして創建したとも伝えられています。御祭神は吉備津彦命の臣下の楽々森彦命と温羅。実はこの楽々森彦命(ささもりひこのみこと)が鯉に化けた温羅を捕えたという伝説もあり、桃太郎伝説の猿のモデルともいわれています。
鯉喰神社の画像を拡大表示 鯉喰神社随神門の画像を拡大表示
鯉喰神社 鯉喰神社随神門

温羅は今は絶体絶命ついにミコトの軍門(ぐんもん)に降(ふ)っておのが"吉備冠者"の名をミコトに献上したので、それよりミコトは吉備津彦命と改称されることとなった。ミコトは鬼の頭を刎(は)ねて串し刺してこれを曝(さら)した。
 岡山市の首部(こうべ)はその遺跡である。

首部(こうべ)
 首部(こうべ)という地名の由来は、この地の白山神社の境内に高さ2mほどのピラミット形の塚があり、吉備津彦命の退治した鬼の首を埋めた首塚といわれている。また、一説には源平笹ケ瀬合戦に戦死したものの塚であるともいわれ、この首塚によったものといわれている。
●首村→南北朝期〜戦国期に見える村名 
●首部村→江戸期から明治22年の村名 
●首部→明治22年〜現在の大字名

 この地には、日蓮宗教永山法久寺(金川村妙圀寺末)があったが、寛文6年(1666)廃寺となった。氏宮白山権現は祭神
伊邪那美命〔いざなみのみこと〕・菊理姫命〔くくりひめのみこと〕の勧請が光孝(こうこう)天皇代(第58代天皇)の仁和年間(885〜889)といわれ、明治2年(1869)に白山神社に改称した。

 その末社に米神社があり、『神社明細帳』は、その祭神を「鬼神首塚」としている。
首塚には吉備津彦命が退治した鬼の首を埋めたとする伝承のほか、木曽義仲の篠ケ迫攻撃のとき、妹尾兼康軍の首を埋めた場所、あるいは建武3年(1336)の福山合戦で足利直義軍が大江田氏経軍の首を埋めた場所とするなどの諸説があり、村名もこれらのことにちなむと伝えられている。
白山神社の画像を拡大表示 首塚の画像を拡大表示
白山神社 神社境内にある首塚

 首塚の伝承は        【現地案内板から】
 一、日本武尊が穴の海(過去の瀬戸内海)の悪神を征伐した首
 二、木曽義仲が笹ケ瀬合戦で滅ぼした妹尾兼康の首
 三、建武三年福山合戦での足利直義軍による
    大江田(オイダ)氏経軍の首
 四、天正七年毛利宇喜多の戦いでの、辛川合戦の首
 五、「備中国吉備津宮勧進帳」の文中の吉備津彦命が退治した
    鬼の首(温羅)
 等諸説があり、村名もこれらの事にちなんで首部(こうべ)となった。
                     一宮地域活性化推進委員会

しかるに、この首が何年となく大声を発し、唸(うな)り響いて止(と)まらない。ミコトは部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。肉はつきて髑髏(しゃれこうべ)となったがなお吠え止(や)まない。
そこでミコトはその首を吉備津宮の釜殿(かまどの)の竈(かまど)の下八尺を掘って埋めしめたが、なお一三年の間唸(うな)りは止まらず近里(ちかさと)に鳴り響いた。

ある夜ミコトの夢に温羅の霊が現われて、 『吾が妻、阿曽郷(あそごう)の祝(いわい)の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌(しんせん)を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈(かまど)の前に参り給え、幸あれば裕かに鳴り、禍(わざわい)あれば荒(あら)らかに鳴ろう。ミコトは世を捨ててのちは霊神(れいかみ)と現われ給え。
吾(われ)は一の使者となって四民(しみん)に賞罰を加えん』と告げた。
されば吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀(まつ)れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という。
 これが神秘(しんぴ)な釜鳴神事(かまなりしんじ)のおこりである。

 今に伝わる吉備津神社の鳴釜の神事は、本来、吉凶を占う神事ではなく、大恩人の温羅、つまり吉備津彦命の怨霊を取り鎮め安らかに眠ってくださいと願う民衆の厳かな鎮魂の重要な神事なのである。
御釜殿の画像を拡大表示 釜鳴神事の画像を拡大表示
御釜殿 釜鳴神事

〜吉備津神社〜  【現地案内板から】
 吉備津神社は、記紀によれば、崇神朝、四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られた大吉備津彦大神(五十狭芹彦命)を祀る山陽屈指の大社、仁徳期創建で、『延喜式』では名神大社、また、最高位を与えられ、一品吉備津宮とも称えられる。古来、吉備国(備前・備中・備後)開拓の大祖神として尊崇され、殖産興業・交通安全の守護神・延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の信仰があつい。吾国唯一の様式にして日本建築の傑作・吉備津造(比翼入母屋造)の雄荘な社殿、鳴釜の神事、桃太郎伝説のモデルなどで著名。

  国宝   本殿・拝殿
  重文   御釜殿・南、北随神門

  県重文  回廊・木彫狛犬

 吉備津神社の創建については明らかではないが、飛鳥時代後期から実施されていた古代律令制の矛盾が拡大し、公地公民制の建前が崩れて私有地が増え、瀬戸内海では海賊が横行するようになった。
手を焼いた朝廷は、瀬戸内海の中枢に位置する吉備の協力が必要と考え、吉備の人々の精神的シンボルである吉備津彦命に注目し神階を上げていった。
また、「怨霊の神」の御霊信仰の流行、さらに右大臣菅原道真の九州太宰府追放による道真の怨霊などに恐怖した朝廷は、盛大な鎮魂の神祭を行った。
○承知14年(847年) → 吉備津神社を無位から
                従四位下
○承知15年(848年) → 従四位
○仁寿 2年(852年) → 皇族に与えられる
                「四品(しほん)」を
                授けられ官弊社と
                なった。
○平安 元年(857年) → 三品
○天安 3年(860年) → 二品
○天慶 3年(940年) → 一品(最高の神階)

 ともあれ、室町時代に足利義満によって再建され、恐ろしい吉備津彦命の怨霊から逃れる方策として吉備津神社を建立、階位を上げ続けて鎮魂の証とした。
現在の本殿及び拝殿は、応永32年〈1425年)に完成。本殿は比翼入母屋造りまたは吉備津造りとよばれる。独創的様式の大建築で、拝殿とともに国宝に指定されている。
吉備津神社本殿の画像を拡大表示 北随神門の画像を拡大表示
吉備津神社本殿 北随神門
矢置岩の画像を拡大表示 回廊の画像を拡大表示
矢置岩 回廊

〜矢置岩の由来〜  【現地案内板から】

 社伝によれば、当社の西北八キロの新山に温羅といふ鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ。
 大吉備津彦命は『吉備の中山』に陣取り、鬼神と互に弓矢を射るに、両方の矢、空中に衝突して落つ。そこに矢喰宮(旧高松町高塚に現存)あり。また中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す。当社本殿の中に祀る矢取明神はすなはちそれなり。この戦のとき大吉備津彦命、その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶと。旧記によれば中古より矢祭の神あり。願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。
神官その矢を岩上に立てて交通の安全を祈る。のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき、と。この神事いつしか中絶せしが、昭和三十五年、岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、毎年正月三日、ここに矢立ての神事を斎行することとなれり。



  桃太郎になった吉備津彦命

桃太郎の童話は、もともと吉備津彦の命の伝承とは別のものだった。
今よく知られている桃太郎童話は、江戸時代の末ころに形が整えられたもので、その原型になる話は全国各地に残っている。

東北地方に残る「瓜子姫」や「桃の子太郎」などもその一つ。
―――おばあさんが川で箱を広い開けてみると、中から男の子が出てきた。
―――おばあさんが川で桃を拾って帰り、戸棚にしまっておいた。
―――おばあさんが拾ってきた桃をおじさんの口に入れると、二人は若返り、子をもうけた。
各地のこのような話が一つのストーリーとしてまとめられていく。
成長した子供が英雄となり、犬などの家畜の助けを借りて鬼を退治する話は日本全国にあり、世界各地に伝えられている。

しかし、この桃太郎の話は、やはり吉備津彦命と温羅伝説の下敷きになって今日のようなストーリーが作られたものと思われる。 吉備津彦命の鬼退治が陸を舞台に繰り広げられているのに対して、桃太郎が鬼を退治する舞台が海である点が違っているが、最近では岡山県が桃の産地だあるうえ、吉備(黍)団子ともかかわりがあるとして、吉備国の岡山県と桃太郎の童話が強く結びつけられている。
だから桃太郎は昭和30年頃から岡山県のシンボルとなった。岡山駅前に建てられた桃太郎像は犬、雉、猿を従えて、いざこれから鬼退治へと凛々しい姿で、人目をひいている。岡山駅前大通りは「桃太郎通り」である。

それにしても、その桃太郎のお供は、どうして犬、猿、雉なのか。
岡山市オリエント美術館長・市川俊介氏は、素朴なこの疑問に対して、江戸時代の滝沢馬琴による『燕石雑志』を引用し、次のように解説している。

つまり、桃太郎が退治する鬼の住むところは鬼門、丑寅(うしとら)(東北)方向であるから、これを退治する桃太郎の家来は、逆の方向にある申(猿)酉(雉)戌(犬)でなければならなかった、というわけ。
当然のことながら、桃太郎の童話の下敷きとなった吉備津彦命の伝承にも犬、雉、猿がいる。
吉備津彦命の犬飼健命。吉備津神社の南随神門に吉備津彦命の随神として祭られている。
「話せばわかる」の名宰相・犬飼毅(木童)はその子孫だといわれている。

次に吉備津彦命のは、留玉臣命。犬飼健命と同じ南随神門に祭られている中田名命は、留玉臣命の系統で鳥飼部という職業集団をかかわりがあったといわれている。

さらに、吉備津彦命のはというと、これが楽々森彦命(ささもりひこのみこと)とされている。足守地域(岡山市足守町)に元から居た豪族といわれており、楽々(ささ)は、ささ、砂鉄のことを意味している。山陰の日野川流域(鳥取県)には、楽々副(ささふく)神社が数多くあり、「たたら製鉄」を業とする集団が斎きを祭ったもの。おそらく楽々森彦命は、出雲系の砂鉄生産集団のリーダーだあったと思われる。

さて、桃太郎といえば、四国高松の桃太郎も知られている。
この桃太郎は吉備津彦命の弟の若日子建命。犬は犬島(岡山市犬島)の住人で、鬼ヶ島の監視を担当。猿は陶(香川県)の人で、敵の動静を探るスパイ。雉は高松市の「雉が谷」の住人で兵士の徴集が役目。そして、高松市の沖に浮かぶ「女木島」が鬼ヶ島というわけである。

四国の桃太郎は高松市の生島湾に集結ののち、一気に鬼ヶ島を攻め込み大勝利を収めた。桃太郎が本津川の近くに引き上げたとき、突然鬼の軍勢が不意打ちを仕掛けてきたが、この時も大激戦のすえ勝利を収め、念願の鬼退治を果たした。鬼がいなくなったこの地を「鬼無(きな)し」と言っている。
高松市に今も盆栽造りで知られる鬼無町がある。

瀬戸大橋で結ばれた岡山・香川両県に同じような桃太郎の話が伝わっている点を注目したい。



  民話「桃太郎」について
【デジタル フリー百科より】

桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。
桃から生まれた桃太郎が、お婆さんから黍団子を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

 あら筋

昔々ある所に子供の居ない老夫婦が住んでいた。ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、大きな桃が流れて来たので、持って帰ってお爺さんと食べようと家に帰った。二人で桃を割ると中から男の子が生まれたので、『桃太郎』と名付けて大事に育てた。成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が横暴を働き、人々を苦しめている事を知ると鬼退治を決意し、両親から黍団子を餞別に貰い、途中で犬・猿・雉を黍団子で誘って家来に従え、鬼ヶ島で鬼と一騎打ち、見事に勝利を収め、鬼が搾取した財宝を持ち帰った。

◇ 優等生型桃太郎
お爺さんとお婆さんの期待通り働き者の桃太郎に育ち、自ら鬼が島に鬼退治に出かける。

◇ 寝太郎型桃太郎
優等生型と同じように力持ちで大きな体に育つが、怠け者で寝てばかりいる。村人や殿などに言われて鬼退治に出かける。

 成り立ち

桃太郎の人形桃太郎の事跡は、岡山県の吉備津彦・温羅伝説の他、香川県や愛知県犬山市等全国に多数あり、本家争い等舞台に付いての異論もある。
成立以前の物語に原型を見る事も出来、特に鬼退治のくだりはヤマト王権と朝鮮半島からの渡来人との間で起きた武力衝突を、御伽噺やお話として脚色、伝承したものが元になったという指摘もしばしば成される(桃は、また別の伝承等との関連が指摘される)。

発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』等が出版により広まった最初の版であるとされる。

明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が出来たという回春型の話の方が主流であった。
桃太郎の人形
この他にも『赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた』、『川上から二つの桃が流れて来たのでお婆さんが「緑の桃はあっちゃいけ、赤い桃はこっちゃ来い」と言うと赤い桃が寄って来た』等、物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。明治20年に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。
また、香川県では桃太郎が女の子だった、とする話が有る。(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)
その後語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』等もその一例である。

   ※ 桃が流れてきた川は、岡山では「笹ヶ瀬川」であるとされている。
   ※ 岡山の名物 吉備団子は、黍(きび)団子に因んで江戸末期に売り出された物。


  □□□□□  お と ぎ 話  □□□□□

   ≪ももたろう≫

 むかし、むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると大きな桃が流れてきました。喜んだおばあさんはその桃を背中に担いで帰って行きました。

桃を切ろうとすると、桃から大きな赤ん坊が出てきました。二人は驚いたけれども、とても幸せでした。その子は桃から生まれたので、桃太郎と名づけられました。桃太郎はあっと言う間に大きくなり、立派な優しい男の子になりました。

ある日のことです。桃太郎は二人に言いました。
「鬼ケ島に悪い鬼が住んでいると聞きました。私が行って退治しましょう。おかあさん、きび団子を作って下さい。」
おばあさんはとてもおいしい日本一のきび団子を作りました。桃太郎は腰の袋に入れるとさっそく鬼ケ島に向けて旅立ちました。

途中、桃太郎は犬に会いました。
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
犬は桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。

桃太郎と犬が歩いて行くと、猿がやってきました。
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
猿は桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。

しばらく行くと、雉が飛んできました。
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
雉は桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。

鬼ケ島に着くと、お城の門の前に、大きな鬼が立っていました。桃太郎は大きな石を掴むと鬼に向かって投げました。猿は門に登り鍵を開けました。雉は鬼の目をつつきました。「こりあ参った。」鬼は逃げていきました。すると鬼達の大将が桃太郎の前に立ちはだかり、「生意気な小僧。俺様が懲らしめてやる。」と大きな鉄棒を振り回しながら言いました。桃太郎はすばやく鉄棒の上に飛び乗りました。
「悪い鬼、村人に悪いことをしたからには許せない。私のこぶしを受けてみろ。」
「アイタタ、ごめん。ごめん。許してくれ。降参だ。」
桃太郎は鬼の金や銀や織物や、荷車一杯の宝物を手に入れました。



   ≪桃の子太郎≫

 なんと昔があったそうな。
あるところに、おじいさんとおばあさんがおったそうな。
おじいさんは、山へ木を切りに、おばあさんは、川へ洗濯に行ったそうな。

 おばあさんが、洗濯をしとったら、川上のほうから、大きな桃が、
 ドンブリ コンブリ スッコンゴー
 ドンブリ コンブリ スッコンゴー
と、流れてきた。

おばあさんが、ひょいとすくうて食べてみたら、とてもうまいんで、
「も一つ流れえ、じいにやる」
いうたら、また、桃が流れてきた。
 そいつをすくうて、持って帰って切ろうとした。
そしたら、桃がぽかっと割れて、中から元気な男の子が「オギャア オギャア」と、泣きながら出てきたそうな。

「おやまあ、おじいさん、男の子が出てきた」
「うれしいのうおばあさん。桃から生まれたんじゃけん、桃太郎いう名をつけよう」
言うて、二人とも大喜びじゃ。
「桃太郎や、桃太郎や」
言うて、ごちそうを食べさせたそうな。そしたら、桃太郎は、ごいごいと背が伸びて、大きな男になったそうな。

 ある日、隣の友達が、
「桃太郎さん、冬が来るけん、山へ木を切りに行きましょうや」
言うて、誘いに来た。桃太郎は、
「今日は、鎌を研がにゃあならん」
言うて、行こうとせん。

 あくる日、また、友達が、
「桃太郎さん、山へ行きましょうや」
言うて来たら、
「今日は、わらじを作らにゃあならん」
言うて、行こうとせん。

その次の日に、「桃太郎さん、山へ行きましょうや」
言うて来たら、
「今日は、縄をなわにゃあならん」
言うて、行こうとせん。

そのまた次の日に、友達が来たら、ようよう腰を上げて、山へ行ったそうな。
ところが、寝るばっかりして、ちっとも働かん。
とうとう、日が暮れかけてきたので、友達が、
「桃太郎さん、もう帰りましょうや」
言うたら「わあっ」と大あくびをして起きてきた。
そうして、大きな木を、ゴイッと引き抜き、根も切らず、葉も落とさず、そのまま、ギッシ、ギッシと担いで戻ったそうな。

 おばあさんはびっくりした。
「まあおまえは、なんちゅう力持ちならやあ」
「どこへ置こうか。庭へ置こうか」
言うけえど、
「庭へ置いたら、庭が砕ける」
「ほんなら、軒下へ置こうか」
「軒下へ置いたら、軒が砕ける」
 桃太郎は困ってしもうて、その木を川へ投げたところがゴオーンと大きな音がしたそうな。

 殿様が、その音を聞いて、
「あれは、なんの音か」
「桃太郎いう名の力持ちが、大きな木を引き抜いて、川へ投げ込んだ音でございます」
「ほう、そうか。そういう元気なものがおるんなら、ひとつ、鬼が島へ鬼退治に行かそう」
そういうことになったそうな。

おじいさんとおばあさんは、臼をゴーリン、ゴーリンひいて、大きなきび団子をこしらえてやった。
 桃太郎が、きび団子を腰に結び付けて行きょうたところが、犬が出てきた。
「桃太郎さん、桃太郎さん。どこへ行きなさるかな」
「鬼が島へ鬼退治に行く」
「お腰のものは、なんでござりゃあ」
「やあ、これは、日本一のきび団子よ」
「そんなら、一つくださいな。お供をします」
「一つはやれん。半分やる」
犬は、半分もろうて食べて、ついて行ったそうな。

今度は、猿が出てきた。
「桃太郎さん、桃太郎さん。どこへ行きなさるかな」
「鬼が島へ鬼退治に行く」
「お腰のものは、なんでござりゃあ」
「やあ、これは、日本一のきび団子よ」
「そんなら、一つくださいな。お供をします」
「一つはやれん。半分やる」
 猿も、半分もろうて食べて、ついて行ったそうな。

 そうしたら、今度は雉が出てきた。雉も、きび団子を半分もろうて食べた。
桃太郎は、犬と猿と雉を連れて、勇んで行ったそうな

 鬼が島へ行ってみたら、鬼は、門をぴしゃんと閉めてしもうて入らせん。そこで、雉がぱあっと飛び立って門を内側から開けたそうな。
「さあ、いけえ」
 犬も入るし、猿も入る。桃太郎も続いて入って、奥のほうにいる鬼どもを見つけた。
みんな、日本一のきび団子を食べておるから、元気がよい。
 犬は、鬼の足に食いつく。鬼が、犬をやっつけようとすると、雉が目をつつく。そうしょうると、猿が飛びついて引っかく。
 往生した鬼は、とうとう、
「どうぞ、命だけは助けてください。鬼の宝物は全部あげますけん」
と、わびを言うた。
「よし、許してやろう」
桃太郎は、鬼の宝物をもろうて、みんなで車の前を引っぱったり、後ろから押したりして、戻ったそうな。
 昔こっぽり、にゃんこの目。





温羅伝説の要約 〔読みやすい文体にしたものです。〕

その昔、異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた。それは朝鮮半島の百済の王子で、名を温羅といい、吉備冠者(きびかじゃ) 〔または、吉備火車〕とも呼ばれた。

彼は居城を備中国の「鬼ノ城」といわれる新山に構えた。温羅は身長4メートル、目は豹のように輝き、髪は赤みを帯びた異様な姿であった。そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き、岩をうがち、人間や猿を食い、美しい女を奪ったりする。そのような温羅は、人々から大変恐れられていた。

そこで、吉備津彦命、もとの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が登場し、この温羅を退治することになる。

吉備の中山に陣を構えた五十狭芹彦命が、新山の「鬼ノ城」に向かって矢を放つと、温羅の放った矢と途中で食い合って落ち、勝負がつかない。
矢が落ちたと伝えられる岡山市高塚には現在「矢食いの宮」がある。

温羅は少々ケガをしても温泉に入って癒(なお)し、勢力はますます強くなる。そのとき命(みこと)は、住吉大明神のお告げに従い一度に二本の矢をつがえて射たところ、一本の矢は途中で食い合ったが、もう一本は温羅の左眼に命中した。
このときばかり命(みこと)は攻めていくと、温羅は大雷雨で洪水を起こし、その流れに乗って逃げようとした。
川の水は、温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった。
この川のことを「血吸川」(ちすいがわ)という。
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが、命(みこと)は鷹となってこれを追う。追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え、川を下り始めたが、命はすばやく鵜になって鯉を追い、ようやく温羅を捕まえた。
ここには今も「鯉食宮」がある。

絶体絶命、温羅はついに命に降伏し、自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った。五十狭芹彦命は吉備津彦命になった。

戦いに勝利した命は、温羅の首を串に刺してさらし首にした。
岡山市首部(こうべ)がその遺跡とされている。

ところが不思議なことに、この首はいつまで経っても吠え続け、執念を燃やし続けてやまない。そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが、ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ。命は釜殿の地下八尺あまりも掘ってその中に埋めたが、13年間唸(うな)りやまなかった。

ある夜のこと、命の夢になかに温羅が現れて言った。
「阿曽郷にいるわが妻の阿曽女に命じてお釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ。幸いあれば豊かに鳴り、禍があれば荒々しく鳴ろう」と。命がその通りにすると、温羅の首はやっと吠えるのをやめた――。

吉備津神社に伝わる温羅退治の伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
   

温羅伝説の実態と背景

吉備津彦命―――その敗北の悲しいドラマ
吉備に語り継がれている「温羅(うら)伝説」―――――。

吉備津神社に伝わる温羅伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女(あそめ)が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
後に林羅山(はやしらざん)の『本朝神社考』や、上田秋成(うえだしゅうせい)の『雨月物語』で知られるようになった。
神秘的な吉備津神社の「鳴釜の神事」は、吉凶を占う吉備津神社の重要な神事として今も続けられている。

この伝説によると温羅こそ吉備王国の王者・吉備津彦命その人である。温羅、すなわち吉備津彦命は、ヤマト朝廷の将軍・五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)の侵略に対して抵抗した吉備の英雄だったのである。
それが後の時代になり、勝利者たるヤマト朝廷が征服者を英雄に仕立て上げ、代わりに温羅を鬼にした、と考える事が出来る。
勝てば官軍、負ければ賊軍なのである。

温羅が朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人であるとする伝承は、この吉備地方が、古代の先進文化をもった渡来人によって開発された地域であることを示している。

百済は三世紀から七世紀にかけて栄え、同じ朝鮮半島の高句麗(こおくり)・新羅(しらぎ)とともに三国時代を形成した。
当時の日本は[倭(わ)]といわれ、文化の面では朝鮮半島よりもはるかに遅れた開発途上国で、百済からは仏教をはじめさまざまな文化や技術を学んで国づくりをした。吉備の豊かな砂鉄資源の開発も、百済からの渡来人とその技術に負うところが大きかったにちがいない。

この伝承は、出雲のヤマタノオロチ退治の神話と同じように、砂鉄資源を奪われる史実を語ったものである。

温羅伝説のなかで「火を吹いて山をうがつ温羅が片眼を射抜かれた」とされているのは、「たたら製鉄」に従事する人々の姿を表現したものである。「血吸川」(ちすいがわ)は、ヤマタノオロチにたとえられる出雲の斐伊川と同じ「たたら製鉄」の川なのである。

総社市阿曽は、「鬼ノ城」といわれた新山の麓にあり、昔から「備中鍬」の名で知られた鋳物産地だ。この地の女性が吉備津神社の鳴釜の神事に奉仕しているのは、温羅が当時のハイテク技術を駆使する砂鉄生産集団の巫女(みこ)によって祭られた吉備王国の王者であったことを物語っている。

吉備津彦命の鬼退治といわれる「温羅伝説」は、吉備の王者がヤマト朝廷によって滅亡される悲しいドラマを物語っているのだ。

そして今に伝わる吉備津神社の鳴釜の神事は、本来、吉凶を占う神事ではなく、大恩人の温羅つまり吉備津彦命の怨霊を取り鎮め安らかに眠ってくださいと願う民衆の厳かな鎮魂の重要な神事なのである。

室町時代末期なって吉備の遠い過去の記憶が呼び覚まされ、悲憤のなかで死んでいった温羅の悲劇的な英雄像が、不遇な源義経に対する「判官贔屓」(ほうがんびいき)と同様に、吉備の民衆の心の中に生き続け語り継がれてきた。
それが過去の栄光を失った渡来人によって屈折した形の伝説として記録されてきたのである。

温羅とは吉備の英雄神・吉備津彦命そのものなのだ。
このような「温羅伝説」の中にこそ、或いは歴史の真実の姿が語られているのではないだろうか。

江戸時代以来様々な形で各地に伝えられた「桃太郎の昔話」は、明治時代に吉備の「温羅伝説」を下敷きにして勇ましい鬼退治の物語として整えられたといわれている。
しかし、明治日本の富国強兵策のシンボルのような勇壮な桃太郎のイメージは、吉備の側から見ると古代吉備の歴史とかけ離れているように思えて何となく馴染まない。
温羅、すなわち本来の吉備津彦命が悲憤のうちに死んでいった悲しく厳粛な歴史が忘れられてしまうような気がする。
    






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