奈良時代から平安時代にかけて、地方においても独自に活躍する高僧が現れるようになった。
備前で活躍した報恩大師もこうした当時の仏教界の傾向に沿う高僧として名を残している。
 「金山寺文書」や牛窓弘法寺の「略縁起」によると、報恩大師は備前国津高郡馬屋郷芳賀、現在の岡山市芳賀に生まれた。15歳で岡山市の日応寺に入り、さらに30歳で吉野山に入って千手観音の修法を修めた。

 天平勝宝4年(752)孝謙天皇(46代天皇)が病気になったとき勅令によって病気平癒の祈祷を行った。天皇の病気はたちまち全快した。その後も報恩大師は吉野山で修行を行っていたが、長岡京にいた桓武天皇(50代天皇)
が重病にかかったときも、報恩大師に勅令がくだり、宮中に入って天皇の病気平癒を祈願する観音呪いを唱え天皇の病気はただちに全快した。この功により「報恩大師」の名と官禄を天皇から賜ったという。
以後、桓武天皇の厚い信頼を受け続けたが、延歴14年(795)に入滅した、とされている。

 この報恩大師の功績は中央ばかりでなく、故郷の吉備に48カ寺を建立したことでも知られ、備前や備中の古寺のほとんどの縁起に開基の祖として報恩大師の名がある。
この脇田山安養寺も、湯迫の浄土寺とともに天平勝宝元年(749)に孝謙天皇の勅令で報恩大師の創建とされている。

 安養寺といえば、全国各地に数多く存在し宗派も様々であるが、ここは天台宗山門派の寺で正式には脇田山安養寺常行院という。ご本尊は木造の聖観世音菩薩の立像である。

 寺伝によると、始めは脇田集落の東の乗興寺というところにあったが火災で焼失、そこで脇田集落の谷奥の古屋敷というところに再建したところ、また火災に遭い、その後江戸時代前期の寛文6年(1666)には岡山藩主による寺院淘汰によって東覚坊が廃寺となるなど、寺運が衰微していった。江戸時代の宝暦年間(1751〜1764)に具法法院が現在地に再建したという。この時の堂宇も明治18年の火災によって焼失してしまった。
現在の客殿・庫裏は宝暦7年(1757)・法華塔は寛政6年(1794)・鐘楼は明治38年(1905)・仁王門は大正15年(1926)・本堂は昭和11年(1936)・観音堂(納骨堂)、事務所は平成9年(1997)にそれぞれ建立され現在に至っている。








Copyright (C) 2005 minamishinogoze-town Okayama-City Japan
from site Separation independence
All Rights Reserved