奈良時代から平安時代初期にかけて、地方においても独自に活躍する高僧が現れる。備前で活動した報恩大師もこうした当時の仏教界の傾向に沿う高僧として名を残している。
 備前の古刹、金山寺に残る「金山寺文書」や備前牛窓の弘法寺の「略縁起」によると、報恩大師は備前国津高郡馬屋郷芳賀、現在の岡山市芳賀に生まれた。15歳で岡山市の日応寺に入り、さらに30歳で吉野山に入って千手観音の修法を修めた。
 天平勝宝4年(753)孝謙天皇(749〜758)が病気になったとき勅令によって病気平癒の祈祷を行った。その後も報恩大師は吉野山で修行を続けていたが、長岡京にいた桓武天皇(781〜806)が重病にかかったときも、報恩大師に勅令が下った。そこで報恩大師は宮中に入り、天皇の病気平癒を祈祷する観音呪いを唱えた。天皇の病気は直ちに全快した。この功により「報恩大師」の名と官禄を天皇から賜ったという。以後、桓武天皇の厚い信頼を受け続けたが、延歴14年(795)に入滅した、とされている。
この報恩大師の功績は中央でその名が知られているだけでなく、故郷の吉備に48ケ寺を建立したことでも知られ、備前や備中の古刹のほとんどの縁起に開基の祖として報恩大師の名がある。その代表的な寺が岡山市金山の金山寺。報恩大師が定めた48カ寺の筆頭になっている寺であり、天平勝宝元年(749)に孝謙天皇の勅令で創建したとされ、天台宗の大寺として大きな勢力をもっていた。
 岡山市湯迫の浄土寺も報恩建立の48カ寺の一つで、東大寺再建の大勧進となった重源とのかかわりがあるとされている。建久4年(1193)東大寺造営料として備前国があてがわれ、重源が備前国の荒野を開発して荘園とし、東大寺造営料の調達にあたったが、この浄土寺が重源の宿舎ではなかったかという説もある。







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