古墳時代後期になると、仁徳天皇陵古墳や応神天皇陵古墳、吉備でいえば造山古墳のような巨大な前方後円墳は影を潜める。それに代わっておびただしい群集墳が築造される。しかしこの群集墳とともに、ひときわ目立つ巨大な横穴式石室を築いた古墳がある。
 横穴式石室は、もともと中国が起源とされている。中国では後漢時代以降「?室墓」という煉瓦づくりの墓室をもつ墓が造られたが、これが朝鮮半島の高句麗や百済を経由してまず北九州に伝えられた。日本では?(瓦・煉瓦)ではなく大きな石が使われ、その形も次第に巨大化した。

 吉備最大の石室をもつ古墳は、倉敷市真備にある「箭田大塚古墳」だ。6世紀中頃に造られたこの古墳は円墳であり、全国的にみても巨大なものだ。吉備ではこれに次いで、総社市の「こうもり塚古墳」、岡山市牟佐の「牟佐大塚古墳」がある。
 このように三大石室古墳には及ばないものの、6世紀から7世紀にかけてその地域ではきわだって大きな石室を築き、地域のなかで民衆に君臨しようとした古墳が数多くある。そのなかの一つに岡山市賞田の「唐人塚古墳」(かろうどづかこふん)がある。
これは7世紀初頭の終末期古墳で、円墳、径25m、高さ4m、両袖式の横穴式石室。石室全長9.1m以上。玄室長5.2m、幅2.1~2.9m。羨道幅1.5m。刳抜式石棺(身長2.2m、身幅1.2m、身高0.5m)。
近辺では、牟佐大塚古墳に次いでの大型石棺である。蓋遺存せず。

 『旧高島村史』で記載されている唐人塚古墳に関する記事で、「明治38年、清野博士の発表した論文」から、
「古老の言によれば、これより去ること80年ばかり前の事に、この上の畑で空洞のような音がするので掘ってみると石槨を発見したが、すでに過去に盗掘されていて何らの副葬品も存在しなかった。石棺は西北の端と東南の端が数寸の大きさ欠けていた。そしてその当時、岡山城主池田候が足軽100人ばかりを送って此の石棺の蓋を持ち去ろうとした。いずれの地に此の石棺蓋を置かんとしたかは不明であるが、あるいは後楽園であったかも知れない。とにかく此の足軽たちは数日の労力を使って旭川の堤まで運んだ時に、不幸にも大雨があって石棺の蓋は河の中に滑り込み爾来今日まで何処にあるか詳らかでない。」とある。







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