吉備高島宮は、紀元前7世紀ころ神武天皇の東征説話のなかに出てくる「吉備の高島」である。日本最古の歴史書『古事記』によると、神武天皇は九州の日向(ひむか)の高千穂の宮を発ち、豊国の宇佐を経て安芸の国(広島県)の「多祁里(タケリ)の宮」に7年滞在し、さらに吉備の「高島宮」に8年滞留されたと記されている。
 大陸の覇権主義の影響を受けた、いわゆる「神武東征」の天孫族勢力が、大陸の騎馬という機動力と豊富な鉄器による強力な武器を持って、九州から瀬戸内海ルートを東征して、地元勢力を吸収し、勢力の増強を図りながら吉備の高島に入った。
 吉備の高島では、その間天孫族の軍事勢力は吉備の中心勢力、特に宮山古墳を築造した勢力の強力を得ながら「前方後円墳」という古墳形態や「特殊器台型土器」による祭祀文化を取り入れ、大和王国攻略のためにさらに船舶の増強など軍事力の増強をはかり準備を重ねたと言われている。

 その吉備の高島はいったいどこにあったのか。吉備の郷土史家を中心に議論されており諸説伝えられているが、その候補地は15箇所にものぼったという。これが天皇制を絶対視する戦前の「皇国史観」のもとで、急ぎ高島を確定する必要が生じ、まず候補地を数カ所にしぼることになった。
 この当時、広島県沼隈郡柳津村(福山市柳津町)、沼隈郡高須村(尾道市高須町)、岡山県小田郡神島外村(笠岡市高島)、岡山県上道郡高島村(岡山市)が、「わが地こそ高島宮の地なり」と名乗り上げていた。しかし、結局、あまり運動が活発でなかった岡山県児島郡甲浦村(現在の岡山市宮浦)の高島が「吉備の高島」として指定されることになった。時に昭和15年(1940)、軍国日本が「皇紀2,600年」のキャンペーンを張っているときであった。本土と児島との間の水道に浮かぶ小さな高島が「神武天皇聖蹟高島宮伝説地」と指定されたのである。

  昭和15年文部省により指定となった
この高島には、古墳時代後期の祭祀遺
跡があり、それが指定の理由と考えられ
るが、考古学的には実証されたものでは
ない。 とはいえ、この高島は本土と児島
との間の瀬戸の東の入り口にあり、岡山
県内を流れる旭川と吉井川の河口に位
置している。
  おそらく、邪馬台国や騎馬遊牧民族の
東征のさいも重要な拠点になったと思わ
れる。

  しかし、あまりにも小さな島。これから
「青山をめぐらす東方の地」すなわち大和
王国を侵略し、当地を支配しようとするた
めに、大勢の軍隊を必要とし、また、船舶
を造船して戦いにそなえなければならない
はずである。
当時の海岸線が現在のJR山陽本線付近
と考えたとき、海岸からはるかに沖に浮か
ぶ小さな島である。

百間川は江戸時代に造られたものなので
別として、旭川や吉井川をさかのぼり武器
生産に必要な砂鉄の調達、造船のための
木材の調達、それに伴う人材や場所の確
保が必要となる。この小さな島だとこれら
を満足させるための条件が整わない。
  これらの条件を最低限確保するために
は、どうしても、本土に拠点がなければな
らないのである。

 『 神武天皇は、太歳甲寅の年(西暦前
7世紀頃)10月5日、高千穂を発たれ、
軍船を率いて東征の途にのぼられた時、
豊後海峡を通り宇佐、筑紫の国、安芸に
寄られ翌年3月6日、吉備の国の高島に
行館(かりみや)を造って滞在された所と
されている。これを「高島宮」といい、ここ
で一挙に天下を平定しようと船の準備や
武器の調達や、食料を蓄えるために過ご
され、戊午(つちのえうま)の2月11日皇
軍はついに東に向かい出航した。
そして、後に神武天皇は大和にて大和国
王に即位された。』

 以上のことから、竜之口山麓に存在する
高島神社こそが、神武東征のさい、最後の
拠点とされた真の場所であると確信する。
以下、その理由を列挙してみた。

(1) 古来より、ここ竜之口山一帯を高島山
と称し、神武天皇を祭神とする高島神社が
あったこと。

(2) 海浜が現在JR山陽本線の南あたりにあり、軍船を停泊させるのに港として良い静かな入江があったこと。

(3) 旭川に沿い古来水陸交通の要衝を占め、出雲との交渉に便利であり大陸の文化(鉄・塩・土器…等)も入ってきたのではないかと思われること。

(4) 旭川が運んできた土砂によってつくられた高島の一帯は土地が肥え、作物が豊かに実り食糧を蓄えるのにもよかったこと。

(5) 船を造る木材の調達にも旭川から運搬してこれたこと。

(6) 現在この付近には、大きな古墳が点在していて、古く吉備の中心地として吉備太宰府や備前国府があった所とされていること。

などが挙げられる。

 明治21年に市町村制ご施行され、清水村、荒井村、新屋敷村、国府市場村、湯迫村、賞田村、祇園村、今在家村、中井村を合併し、由緒ある高島宮があるところから、高島村となったということである。







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