

国庁宮(またの名を 「国庁久の宮」ともいう)
・祭神 大国主命 ・ 大年神 ・ 若年神
・祭日 11月23日
備前国国府遺跡の中にある神社で、社殿は小さい流造の本殿と切妻造妻入りの拝殿があるだけで、いたって簡素な構えであるが、550坪の社地には老松が亭々と繁り、さすがに国府の記念に祀る神社の風格をあらわしていた。
由緒として上道郡誌は「当社は往古国府を置かれし旧地にあり。国庁宮といいしを、後世に至り国長宮と改めしものなりといへり」と記している。吉備温故秘録には「国長宮(卜定宮ならん)」と記し、郡誌もこの説を付記して『元亀元年、天応元年、大同2年、即位の大礼を行わせ給ひ大嘗会の事あり備前に悠基又は主基の神田を設けられしとあれば卜定宮跡に宮を造営して奉齋するところを卜定宮といい転じて国長宮となりしか』と述べている。
とにかく備前国府遺跡の調査に最も有力な拠点となっている神社である。旧社格は村社。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、飛鳥で即位した天武天皇(40代天皇、673〜686)となった。
その天武天皇により吉備の太宰に石川王(いしかわのおおきみ)が任命された。
太宰府といえば、天満宮でも有名な筑紫太宰府が一般的に知られているが、7世紀には筑紫のほかに吉備、周防、伊予、東国などにも置かれていた。太宰は「総領」ともいわれ、のちの律令制下のいくつかの国を合わせた広域の行政区画を管轄していたもので、ヤマト朝廷から見て重要な拠点に置かれていた。大宝律令(701年、大宝元年8月3日・これによって「日本」という国号が法的に確定した。)の制定とともに筑紫太宰だけを残して廃止されたが、天武天皇の時代の吉備太宰は播磨もその管轄区に含めており、筑紫太宰とともに最も重要な太宰だった。
天武天皇は吉備王国の地方長官ともいえるその吉備太宰に、壬申の乱の功臣・石川王を任命した。
「日本書紀」では、天武天皇8年(679)にその吉備太宰の石川王が病のため吉備で亡くなった、と記されている。
天武天皇は石川王の死を聞いて「大きに哀しみたまふ。則ち大恩を降したまふと」と悲しまれ、「諸王二位」を贈ったことが記録されている。
さて、この石川王を祭る神社が備後国にある。現在の福山市芦田町にある国司神社がそれだ。「西備名区」という文献によると、吉備太宰の石川王は、備後の国司でもあり備後府中にいたが、人々をあわれみ思い、しばしば善政を行った。人々はとてもありがたいことだ感謝していたが、石川王が病のため府中の館で亡くなったことを聞くと、父母を失ったように悲しみ、王の遺徳をしのんで府中の近くに祠(ほこら)を建て、国司の社として祭ったとされている。この神社の近くには、石川王の墓と伝えられる古墳もある。古墳時代終末期に花崗岩で築かれた切石組古墳の曽根田白塚古墳がそれである。
その石川王がいた吉備太宰の政庁はどこに設けられていたのか。石川王はどこで亡くなったのか。『日本書紀』にはまったく記録がないが、石川王が亡くなったのが備後の府中という伝承があることは重要である。
吉備太宰が置かれていた場所は、吉備国の中心地である備前か備中と考えるのが妥当である。現に吉備太宰の置かれていた地は備前国府の想定跡地(岡山市国府市場)とする説が有力で、ここには「タサイ」の地名が残っている。とすれば備前で政務を執っていた石川王が、たまたま備後の国府に来ていたときに亡くなったということだろうか。
ここで重要なことは、石川王の時代に、吉備国から備後国を分離する動きがあったと思われることだ。
石川王はその分離政策の推進者で、備後にやってきて、備後の人々をあわれみ思い、善政を行いつつ備後の分離政策中、備後国府に設けられた臨時の政庁で病のため亡くなったのではないかと想像することも出来る。
備後の吉備国からの分離は、ヤマト朝廷が強大な吉備王国を分割し弱体化させる政策の第一歩であった。
壬申の乱のとき終始大海人側にあった備後の人々にとっては、石川王に親近感をもち、もともと備後地域がもっていたその独自性から自分たちの地域を「吉備の後(しり)の国」として独立する動きをみせていたものと思われる。
石川王はこの動きをとらえて備後の分割を一気に推進しようとし備後の人々もこれを歓迎したのであろう。
石川王による分割は、同時に備後国の独立であり新しい誕生でもあったようだ。
備前国府は、いま風で言うと県庁所在地とでもいえる官庁街といったところだが、この備前国庁跡とされている一帯は、賞田地区南側一部を含め国府市場地域がその国府政庁や官衙(かんが)、つまり現代風で表現すると備前県庁の官庁街であることが想像できる。
その地域の一角に、岡山県史跡として指定した備前国庁跡として大国主命を祭る「国庁宮」が存在するのだ。
いずれにせよ、備前国府跡想定地を縦断するように、旧山陽道(古代山陽道)の北側に平行して新設道路の工事が進んでおり、いま、それに伴う発掘調査が行われているので、おおよその全体像が明らかになるものと思われる。