

土田から西大寺へ向かう県道の古都宿に入ったところに惣ケ池がある。その池尻の田地や用水溝から奈良時代後期の瓦が出土するので、この地域に平地伽藍があったものと推定されている。一説には惣ケ池の北側にあったとも云われているが、池の構築などで地形が変わったのと、礎石がひとつも残っていないので、当時の寺境を見定めることは困難な状態にある。
惣ケ池から宿の部落西口まで約200メートル、井寺の地名は宿の西部にまで及んでいるので、相当規模の寺院が長期にわたって存在したものと思われている。
山陽道が竜之口山の南に路線を変えたのは鎌倉初期らしいが、その当時の山陽道は旧玉井村大字観音寺から宿奥を通り才ノ嵶(さいのたわ)を超えて宿に下った。ついで旧県道筋を土田に出て国府市場の方に向かって行った。宿はその地名通り当時の宿場だったところで、背後の山腹を下る旧道が残っており、これが昔の山陽道で、道を下ったところを市場といい、今も宿場らしい家並みを残している。
井寺の平地伽藍はむろん山陽道がこの地に路線を変えない以前に建てた寺であるが、この道筋は岡山平野に営まれた国府集落への交通路として早くから通じていたものではなかろうか。また土田付近は秦人系の有識帰化人が住み着いたところとして知られているだけに、帰化人と寺との関係も考えられる。
いずれにしても矢津山を越えた山陽町の馬屋に備前国分寺が建てられたのと前後して、この地に天平文化の花と称えられる平地伽藍が営まれたのは事実で、備前国分寺尼寺跡の候補の一つに挙げられるのも、根拠のないわけではない。