旭川と吉井川によって形成された岡山県南の沖積平野は、土地の肥沃さをうたわれる穀倉地帯である。この穀倉地帯を眼下に眺める竜之口山系の東部に備前車塚古墳は千数百年の眠りを続けていた。昭和31年、岡山県内最古の備前車塚古墳は、その秘められていた姿を人々の眼前に露呈した。
この古墳は岡山県南では珍しい前方後方としての外形を持ち、わが国最古の古墳グループとしても珍しい特殊の外形をもっていた。

 4世紀から5世紀にかけての沖積地内の大前方後円墳に比べれば、その規模は遠く及ばないけれども、わが国最古の古墳の一つとしてはかなりの規模をもった古墳といえるだろう。
古い伝承の中にあらわれる吉備津彦命の物語は、現代に住む岡山県人にとって、子供の頃から聞かされてきた揺籃の唄であるが、そのような強力な3・4世紀における吉備の豪族の存在が、千数百年後の私たちの生活の中に持ち込まれてきたわけである。吉備の国にまつわる物語は、決して夢幻の世界であったわけでなく、かつて存在した現実の強力な社会を背景として生まれてきた物語だったのである。


 1956年(昭和31年)、当時まだほとんど知られていなかった前方後方墳から合計13面とう鏡が掘り出され、考古学者たちを驚かせた。その鏡のうち11面までが同范鏡(どうはんきょう)の分有(ぶんゆう)関係が明らかにされた学会の注目を集めていた三角縁神獣鏡だったのである。この古墳こそ備前車塚古墳である。

 備前車塚古墳は竜之口山から平野に向かって突き出した標高180メートルの尾根上に位置する。墳丘には石垣のような葺石(ふきいし)が貼りめぐらされており、主軸をほぼ東西に向けた二段筑成の前方後方形の墳形がはっきり分かる。
規模は墳長48.3メートル、後方部は一辺23〜24.5メートル、同高さ3.8メートル、前方部長21.8メートル、同高さ3.0メートルである。前方部は三味線の撥(ばち)のように前面に向かって大きく開いており、その上面には隆起斜道の跡をとどめている。

 後方部のほぼ中央には墳丘の主軸と直行して竪穴式石槨(せっかく)がある。全長5.9メートル、幅1.2〜1.3メートル、高さ約1.5メートルの石槨は、割り石を持ち送りに積むもので、岩盤を削った上にじかに据えられている。床面には粘土が敷かれており、割竹形木棺が据えられていたものと考えられる。

 石室から出土した鏡は内行花文鏡(ないこうかもんきょう)1面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)1面、三角縁神獣鏡11面の中国鏡であり、鉄、鉄刀、鉄剣、鉄鉾、鉄鏃(てつぞく)(=やじりのこと)、鉄斧などを含んでいた。

 1967、68(昭和42・43)年には岡山大学と岡山理科大学の合同で発掘および測量調査がなされ、石槨の床面からは鉄器類、靱(ゆぎ)などが出土した。また、墳丘では壺形土器などが発見されたが、都付(とつき)型埴輪をはじめとする埴輪類は確認されていない。

 この古墳は鏡が中国製のみであることや、前方部が撥型に開く特徴的な形態であることから最古段階の古墳と考えられる。特に、11面の三角縁神獣鏡は畿内以外の古墳としては最も多い出土数であり、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府山城町)など多くの古墳の鏡との同范(どうはん)関係(いがた)が分かっている。また、墳形は、前方後方墳というちがいはあるものの、箸中山古墳(奈良県櫻井市)の6分の1規模の相似形であることが指摘されている。こうした鏡の同范関係や墳丘の規格の共通性は古墳時代初頭の畿内政権と地方の首長たちの関係やその性格・方法を知る手がかりとして注目される。また、鏡の多量の分有関係から、畿内の政治中枢に関わりの深い人物が被葬者であるとみられ、同時に旭川下流域の前期初頭の古墳によく伴う都月型埴輪を持たないことから、地方平定のために派遣された人物ともいわれる。


  《三角縁神獣鏡について》

 前記の解説では、三角縁神獣鏡は中国製となっていますが、これは国産であるとする異論を唱えている研究家もいます。
かなり詳しく解説していますので、興味があれば下記のとおりご紹介しておきますので、ぜひご覧になってはいかがでしょうか。

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