



旭川は岡山市街の中心部から8キロほどさかのぼると、もはや中流のおもむきとなり、川岸まで緑の濃い山が迫っている。そのうち、東岸にわずかな沖積地帯が開けたところが牟佐で、古墳はその平地を南にひかえた山麓にある。古墳時代後期末から終末期の横穴式石室墳で、全長18.0mという石室規模から、こうもり塚(19.4m・総社市上林)、箭田(やた)大塚(19.1m真備町箭田)、とともに吉備の三大巨石墳に数えられ、石室の特徴から最も新しいといわれている。
この古墳は円墳とみられ、いま直径は30m、高さ8.5mある。ただ裾が古く削られてはっきりせず、本来はさらに大きかったようで、方墳の可能性を考える人もいる。
〔墳丘図をみてわかるように、墳墓の北側と東側が道路敷設によるものか、円周の約6〜7割が削り取られており墳墓築造の時より小さくなっているものと思われる。〕
石室は花崗岩の巨石を組んだ両袖式である。玄室は長さ6m、幅2.8m、高さ3.2mで、石室全長の割りには小さい。ほぼ南に開口する羨道(せんどう)は、幅1.8m〜2.4mと、入り口に向かって開いている。
羨道の高さは2.1mで、天井は玄室との間に50pの段をもつ。
玄室には、長さ2.9m、幅1.6m、高さ1.5mの家型石棺が安置されている。井原市で採れる貝殻石灰岩製である。この石棺材は備中南部の大形石室墳でしばしばみられ、吉備の大首長の独自性を示すものとして古くから注目されているが、東の備前ではこれが唯一となる。棺小口の穴は盗掘によるもので本来の姿ではない。
ところで、眼前の平地は旭川が蛇行して流れた跡で、当時は肥沃な水田が広がっていたとは思えない。にもかかわらず、吉備でも屈指の石室墳を生み出したものは何だろう。鍵はこの地が交通の要衝に当たることにある。じつは古墳より少し後に律令政府によって整備された古代の山陽道は、山陽町の盆地から谷を西に抜けてきて、ここで旭川を渡っていたのである。東西に延びる幹線陸路のいわば関所を担い、加えて南北の旭川に沿って舟運に活躍する首長の姿が浮かんでくる。
なお、旭川の東岸堤防を1.5Kmほどさかのぼれば「林原古墳群」がある。横穴式石室墳が数基群集し、県道のすぐ下のものは標識もあって見学しやすい。