

最明院は、もと「見明院」といわれ湯迫山浄土寺の境内にあった。
今は既に跡形も無いが、北条頼時(1227/6/29〜1263/12/24)とゆかりのあるところだ。
反北条勢力の勢いづく鎌倉幕府4代将軍九条頼経のとき、1246年.、時頼は若干19才で鎌倉幕府5代執権(将軍の補佐役)となり、北条氏に反対するものを次々と倒し、引付衆を設けて裁判の公正と御家人の保護につとめ、北条氏の独裁体制の基礎を固めた。
また、禅宗を深く信じ、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を宋(中国)から招いて建長寺を建てた。
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引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。 |
時頼は病に倒れたため、執権職を一族の北条長時に譲って出家し、最明寺入道(覚了坊道嵩)と号した。
しかし、執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。時頼は嫡男の北条時宗が1251年に誕生していたが、このときはまだ6才という幼児だったため執権職を継がせるわけにもいかず、長時を代行として執権職に据えて時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと云われている。だが、引退したにもかかわらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後北条氏における「得宗専制政治」の先駆けになってしまった。
時頼は出家後、最明寺(さいみょうじ)入道と称して地方をめぐり、民情視察を行ったと伝えられている。
その諸国を行脚したとき、ここ湯迫の「見明院」と呼ばれたこの院に立ち寄ったのであった。
それ以後、最明寺入道時頼卿の名にちなみ、この院を「最明院」と呼ぶようになった。
1263年11月22日、最明寺で病のため死去した。享年37才。
浄土寺には、北条時頼、池田継政、池田宗政それぞれ自筆の書が秘蔵されている。
ほかに句も残されている。
○ 池田継政卿の句
『爰(ここ)に残る名やかくはしき雪の精』
○ 池田宗政卿の句
『最明院に来りて道嵩禅門の高徳信ずるにあまりありて 今もその徳の重さよ雪の笠』
| 得宗 得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡系である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代に渡る。「得宗」とは、2代目である北条義時の法名に由来して北条泰時が名づけたとされる。徳宗とも。義時流、得宗家。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。 鎌倉時代には、得宗家は専属の被官である御内人、家政機関(公文所)と所領を持ち、諸国の守護職や、六波羅探題をはじめ幕府の要職の過半を占める北条一門の最上位に位置づけられた。鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族のものに譲り出家し、実権を握り続けるケースが見られる。このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。 元寇以後には御内人が幕政に影響力を発揮し、得宗邸で行われる北条一門や御内人の私的会合である寄合が評定衆による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、専制体制を築く。 |
| 北条時頼官職位階履歴 ※日付=旧暦 1238年(嘉禎4)、4月22日、営中で元服。将軍九条頼経の諱を一字賜り、時頼と名乗る。 9月1日、左兵衛少尉に任官。 1243年(寛元元)、閏7月27日、従五位下に叙し、左近衛将監に転任。 1244年(寛元2)、3月6日、従五位上に昇叙。左近衛将監如元。 1246年(寛元4)、3月23日、幕府の執権と就る。 1247年(宝治元)、7月、相模守に転任(異説:1249年<建長元>6月14日、相模守に転任) 1251年(建長3)、6月27日、正五位下に昇叙。相模守如元。 1256年(康元元)、11月22日、執権辞職。出家し、覚了房道崇を称す。 1263年(弘長3)、11月22日、卒去。享年37歳。 法名:最明寺道崇。 菩提所:鎌倉市山ノ内の福源山明月院。 また、静岡県伊豆の国市長岡の如意山最明寺にも分骨された墓所がある。 |