宍甘三王山古墳(しじかいさんのうざんこふん)は岡山市宍甘にある前方後円墳で、後円部から前方部へ向かう斜面上には山王社がある。
墳長68.5m、後円部径39.5m、後円部高6 m、前方部長30mである。
 前方部が三味線のバチ形に開く最古形式の前方後円墳である。しかしながら、採集されている埴輪は、最も古い埴輪である都月型よりもやや新しい。対岸の讃岐地域では、バチ形に開く前方部が比較的新しい時期まで認められる。本墳も同様の可能性がある。ただし平面形については、奈良県桜井市箸墓古墳の4分の1相似形という指摘もされている。周囲には、墳長が15m未満の小墳が2〜4 基分布しており、小規模な古墳群を形成している。
 さらに南側には「石間江」(岡山市米田付近)という古代の港湾が想定されることから、海上交通路を意識して築かれたものと考えられる。
 本墳は、北西2.0 qの位置にある備前車塚古墳に続く首長墓と考えられる。
 この両古墳の墳形をみると、撥型に開いた前方部の片方の角が反対の角に比べて突き出している。備前車塚古墳では南、宍甘山王山古墳では西の角である。

 山王社は山王権現(大山咋神(おおやまくいのかみ))を祭る。

 山王信仰は,滋賀県大津市の日吉大社に対する信仰である。その起源は近江の比叡山(日枝山)一帯に古くからあった山岳信仰である。主祭神は,大山咋(オホヤマクヒ)とされる。『古事記』の系譜では,大山咋神は大年神の御子,すなわち素戔嗚尊(スサノヲ)の孫にあたる。

平安時代になって伝教大師・最澄が日枝山に延暦寺を建立したが,山麓の日吉の神々を延暦寺の鎮護神・護法神として尊重し,「山王」と呼んだ。これは中国の天台山に山王祠が祭られていることにならったものである。これにより,両者の習合が始まった。これ以後,日吉大社は仏教風に「山王権現」「日吉山王」とも呼ばれるようになり,天台宗の隆盛に合わせてその信仰も拡大した。また延暦寺系の寺院が比叡山の山王神を勧請したことによって山王権現の信仰も全国に広まった。日吉大社の神霊が各地に分霊されて日吉神社・日枝神社が建てられた。

鎌倉時代になると,天台宗の教学と日吉の神への信仰を結合した「山王神道」が確立し,山王神は釈迦の垂迹とされ,さらに下ると伊勢神道の影響によって天照大神と日吉の神を同一とする主張も現れた。
しかし,明治政府の宗教政策によって延暦寺と山王権現は分離された。

山王信仰の特徴のひとつに,猿が神の使いとされることが知られている。比叡山土着の古い信仰において,その山に棲息する猿を神の使いとしていたのかもしれない。








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