上の図面は明治28年に発行されたもので、これにルートや地名を記載したものです。
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平成3・4年岡山県教育委員会が実施した「歴史の道調査報告書『山陽道』から照会します。


 旧山陽道は三石から備前一宮(吉備津彦神社付近)までの間は時代によって経路が異なっているのである。

◆古代(原始)の山陽道
は三石から吉永・和気・熊山・万富を通り、瀬戸から備前一宮まで南西方向に直線的に繋がるコースで途中、国分寺を通る。
◆中世の山陽道
は備前国分寺までは古代と同じで、国分寺を過ぎてから、太戸から南にむかい向山・地蔵・矢津の峠道を経て、土田でこんどは右に折れ、真西の方向を変えて、高島の北の備前国府の中心を通って備前一宮に達するコースをとる。
◆近世の山陽道
は三石からすぐに北にむかい八木山を越えて木谷・伊里から港がある片上を通り、備前焼のまち伊部・香登を抜け、岡山市内に入り、市内から北西方向に備前一宮に向かうコースとなっている。

 『日本書紀』の中で、「山陽道」の名が最初にみられるのは天武天皇(第40代天皇)の14年(685)である。
「京畿に使いを遣わして兵器を検閲する」という記事に続き「東海、東山、山陽、南海、筑紫の諸道に使いを遣わして政治、経済の状況を視察させる」と書かれている。このなかでは北陸道の名が見えないが、後の律令制下の「五畿・七道」の原型がこのときにみられることは注目される。
 律令制下の「五畿・七道」は、あくまで領域観念に基づくもので、常駐の官人は置かれず、したがって特定の官庁は設けれられなかった。ただ臨時の監察使が派遣されるだけだった。とはいえ、中央の政権が地方を支配し管理していくための、一つの政治的な制度であることには変わりはなかったのである。
 これに対して、「道路」としての「七道」があった。
 道路としての山陽道が整備され始めるのも、やはり、天武天皇の時代と考えられる。そして古代山陽道の整備が最終的に完成するのは大宝元年(701)以降と考えられている。
 中央の政府が国家的な要請で「官道」として山陽道の整備を始めたのは、政治的な要請だけではなく、軍隊を輸送・展開するための軍事的な要請もあり、さらに、諸国の様々な物産を祖、庸、調として中央に貢納させるためにも必要な措置だった。律令制時代の前半、春米(つきよね)の貢納では、海上交通よりも安全性の高い陸上交通が重視されたことが各種の文献からうかがえる。
 律令制では、この道路としての道を大路、中路、小路の三等に区分しているが、山陽道は「大路」とされていた。全国の道路の中で「大路」は山陽道だけで、中路は東海と東山の二道、そのほかは小路とされていた。古代の山陽道がいかに重要な道路であったかがこれによってわかる。
 この山陽道は吉備の国々のどこを通ったのか、山陽道に設けられた「駅家(うまや)」を手がかりにして東からたどってみたいと思う。

 『延喜式』(現在の法律施行規則にあたる)によると、「駅家」の名としては備前では坂長、珂磨、高月、津高がある。備中では津見、河辺、小田、月後があり、備後では安那、品治、者度(うつど)が記録されている。格駅は30里ごとに置かれ、それぞれ駅使いがいて馬20匹を備えることが定められていた。

      ○ 備前地域内駅家(うまや)
           @坂長駅家(備前市吉永町)    ・馬20疋(匹・ひき)
           A珂磨(かま)駅家(赤磐市松木) ・馬20疋
           B高月駅家(赤磐市馬屋)      ・馬20疋
           C津高駅家(岡山市一宮付近)   ・馬14疋

 なお、こうした駅を運営するためには、近くの数十戸を駅戸に指定し、四町の駅起田で栽培された稲をもって運営の財源にあてたということである。

 播磨から備前に入る道は、おおむね現在のJR山陽線に沿って坂長駅(現在の備前市三石付近)に入った。次いで吉永町を経て珂麿駅(赤磐市熊山町松木付近)を通り、両宮山古墳と備前国分寺の近くの高月駅(赤磐市山陽町馬屋付近)経由で備前国府(岡山市国府市場)に至った。さらに津高駅(岡山市富原付近)から旧国道の吉備の中山、吉備津神社の北を通り、備中の津見駅経由で備中国府(総社市金井戸)に入った。津見駅の所在については、いろいろな説があるが、現在では倉敷市矢部が有力。これより西は、高梁川西岸の河辺駅(倉敷市真備町川辺付近)から箭田(やだ)大塚古墳の南を通り、小田駅(小田郡矢掛町浅海付近)経由で後月駅(井原市後月谷付近)に至った。
備後へは、国分寺跡近くの安那駅(深安郡神辺町下御領付近)を経て、品治駅(福山市駅家町付近)にいたった。福山市駅家町の地名になっている駅家の中島遺跡からは奈良時代の古い瓦が多数出土しており、これが品治駅とされている。
 そして、さらに芦田川をさかのぼって備後国府(府中市府川町付近)に入り、国府から芦田川の支流に沿って者渡駅(御調郡御調町付近)に至る。そして、ここから八幡の山間の峠を越え、沼田川の支流域に出て安芸の国へ入ったものとみられる。

 この山陽道を通って平安京へ行くには、備前からは8日間、備中からは9日、備後からは11日、安芸からは14日を要したといわれている。現在の幹線道路のような舗装された立派な道路ではなかったが、それでも山陽道は国家的な要請によって造られたものだけに、真っすぐな道を繋ぎあわせたような最短距離で結ぶ道路であったようだ。







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