紀元前6世紀に釈迦がインドで創唱 した仏教が、中国、朝鮮半島を経由し て日本に伝えられたのは『日本書紀』 によると、欽明天皇(540〜571)13年 (552),朝鮮半島の百済の聖明王が、使 者を日本に遣わして金銅製の釈迦仏と 経論をもたらしたことに始まる。 これが仏教の公伝といわれている。こうして日本につたえられた仏教は、聖徳太子の熱心な仏教への帰依と相まって、ヤマト朝廷公認のもとに畿内を中心に急速に広がった。
  日本最古の本格的な仏教寺院「飛鳥寺」は、高句麗の資金的な援助や 百済の技術者たちの指導のもとに建てられたと『日本書紀』は記している。仏教は日本を統治していくために極めて有効な政治的なイデオロギーだった。このような仏教が吉備にも伝えられ、吉備で最初に建立された寺院は、総社市の「秦廃寺」である。
  賞田廃寺は、発掘調査の結果、飛鳥時代に創建された備前で最も古い仏教寺院であることが明らかにされ た。賞田廃寺の調査では、塔、講堂、西門、回廊、築地などが検出された。寺域は東西120m南北120mと 推定され、その中に東西83m、南北55mの回廊で囲まれた中心伽藍があり、その東側には塔跡が見つかり、西側には金堂があったことが推定されている。
このうち塔は、この地方では珍しく壇上積の基壇である。 出土遺物も多く、大量の瓦のほか須恵器、土師器、三彩陶器、緑釉陶器など古代土器類が出土した。 瓦は飛鳥時代のものがわずかに出土し、白鳳時代末から奈良時代初めのものがその上層から多数出土しているのが特徴。このことは、賞田廃寺はまず飛鳥時代に小堂として創建され、白鳳時代に大がかりな整備 が行われたことを示している。
 この賞田廃寺は、上道(かみつみち)氏の氏寺として最初に建立されたものと考えられるが、やがて奈良 時代に律令制下が設けられるのに伴って、次第に官寺としての性格が強くなっていく。このことは、吉備王国の伝統をひく吉備の独自性が次第に薄れ、中央のヤマト朝廷による支配がますます貫徹していく姿を物語っている。



 平成18年度発掘調査から

 岡山市の史跡公園化計画に伴って、平成18年度事業分として7月から発掘の行われていた”史跡賞田廃寺跡”の調査を終え、現地説明会が、平成18年8月20日賞田の発掘現場において行われました。
その時の説明会資料をもとに照会します。

    発掘調査現地説明会資料

平成18年8月20日    岡山市教育委員会      

 賞田廃寺は、飛鳥時代(7世紀中頃)に建てられ、一部の建物は中世(14世紀頃)まで使われたお寺でした。
以前からこの辺りは、白鳳時代(7世紀後半)や奈良時代(8世紀)の古瓦が出土する古代寺院として広く知られていました。
 昭和45年の発掘調査によって白鳳時代と奈良時代の二度にわたって大整備がされていたこと、金堂・塔・西門および回廊・築地(ついじ)跡の一部が発見され、およそ1町(110m)四方の寺院であることが判明しました。塔と西門からは中央の有力寺院では用いられているものの地方ではごくまれな凝灰岩壇正積基壇(ぎょうかいがんだんじょうつみきだん)が用いられていることなどが明らかとなって、昭和47年3月に国史跡に指定されました。
 岡山市教育委員会では史跡公園として整備するために、まだはっきりとしていない建物の配置や、それぞれの時期などを確かめることを目的として、平成13年12月から発掘調査を実施してまいりました。調査により以下のことが明らかとなっています。

 主要な建物の配置は、金堂が東西両塔の中軸上からやや東にずれており、畿内の有力寺院とは異なり、変則的な配置をとります。
 白鳳期に建てられた金堂基壇は、東西15.5m南北12.6mに復元でき、礎石や抜き取り穴から。東西5間南北4間の柱間の建物であったことがわかりました。基壇の外周は中世に基壇上面からおよそ1.8mの深さまで堀り下げられ、14世紀に焼失したと考えられます。
 講堂は金堂の北にも西にも存在せず、いまだ所在不明です。
 当初西門と考えられていたものは塔であると改められました。このことで、奈良時代になって東西二つの塔が建てられ、寺地の大整備がはかられたことが明らかとなりました。東塔は凝灰岩壇正積基壇の外側を、自然石で一辺約16m四方に取り囲み、南辺には石段がつきます。瓦についた傷から東塔が先に西当が後に建てられたことがわかります。東西両塔の周囲からは、両塔とも異なった規格の基壇外装石が見つかり、第三の凝灰岩壇正積基壇があったと推定されます。

 金堂などの主要建物群を囲う南の塀は、幅2mの溝とこの溝と南に並行する柱穴列から、9〜10世紀頃には掘立柱塀が作られていたようです。西は茶臼山を利用していたと考えられます。東は幅2mで並行する南北溝から築地塀が作られていたと考えられます。これによる範囲は南北約90m東西約140mです。

 西の山(茶臼山)の裾には9〜12世紀にかけて、銅の鋳造や鉄鍛冶などを行った工房がありました。

 今年度の調査では、金堂の真西で西塔の真北に当たる地点で、新たに9つの礎石が発見されました。後世の耕作などにより南側は無くなり、礎石や柱間を持つ建物と考えられます。柱間はおよそ1.8mですが、中央の礎石は2.7〜2.8mの間隔があります。礎石は大きいもので長さ1.5mをこえ、柱座や地覆座を削り出しています。地覆座はほかに比べて粗く転用時の再加工と考えられます。この建物は礎石の北側と西側の雨落ち溝中の瓦から、室町時代に建てられた仏堂と考えられます。

 このほか、南門を明らかにするため市道部分の調査も行いましたが、その手がかりは得られませんでした。

 これまでの主な建物は、飛鳥から中世まで各時代の瓦、鴟尾(しび)、風鐸(ふうたく)、瓦塔、瓦経、円面硯、中国製磁器などがあります。








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