
伝えられるところによると、和歌山県熊野神社の神官であった鈴木某なる者が、京都の八坂神社の分霊(素盞鳴尊)を背負うてこの地に来て、現素盞鳴神社の境内に祀ったと伝えられている。応仁の乱(1467〜1477)の後のことである。当初は極めて小さな祀程度のものであったらしい。
寛文7年(1667)岡山藩の藩主池田光政公は備前国内の神社の整理をしたが、この社は淘汰されなかったばかりでなく次の藩主綱政公が、正徳2年(1712)に改めて京都祇園社から素盞鳴尊の分霊を勧請して、新しく社殿を造営し社領(石数不明)も与えた。現在の社殿はその時のものであると思われる。
綱政公がこの神社を造営した所以については、当時水害・干ばつが相次ぎ疫病が流行ったので、疫病退治の神様と言われた素盞鳴尊信仰に傾いたという説が有力である。
スサノオノミコト(素盞鳴尊)(別名= 素戔鳴尊・素鳴男尊・須佐の男尊・健速須佐之大神)といえば、あまりの乱暴ぶりに姉の天照大神を怒らせて高千穂の天の岩戸に逃げ込ませ、世界から太陽の光を消してしまう神話。見かねて父であるイザナギノミコト(伊邪那岐尊)に高天原を追放されて出雲の国に流されてしまった。そこで八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して美しい姫を救ったという神話など、あまりにも有名な話しである。
出雲の国は、父であるイザナギノミコトが御祓いをした地といわれ天界から地上世界の故郷に帰ったわけであり、そして、ここからその性格が悪玉から善玉へと一変する。その変貌ぶりが多重人格といわれる所以でもある。
「祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」
有名な『平家物語』の一説である。
祇園精舎とは、インドの仏を祭ったお寺のこと。その祇園精舎のお寺を守護したのが牛頭(ごず)天王である。
日本に仏教が入ってくると、僧侶たちは日本の神はすべてインドの仏が生まれ変わったものと宣伝した。
そして、日本の神のスサノオ命も仏教の牛頭天王が生まれ変わったものとされ、そのスサノオ命を祭る神社を祇園社または天王社とよぶようになったのである。
そのスサノオ命は、出雲の砂鉄資源を掌握しながら農耕地を開拓し、さらに勢力の拡大をめざし、江川が広島県三次市で三つに分かれる支流のひとつ可愛川(えのかわ)に入ってきた。さらに江川から斐伊川を経由して南下し、やがて備北から備後の母なる川・芦田川に入ってくる。
備後の広島県甲奴町小童(ひち)には祇園社といわれる須佐神社がありスサノオ命を祭っている。広島県上下町矢野では、スサノオ命がこの地でしばらく休息し、傍らの泉でのどを潤し、多くの里人に見送られて去ったと伝えられている。須佐神社のお祭りでは、今もこの故事にちなんだ神事が矢野の人々によって続けられている。
芦田川流域の広島県新市町上戸手には、天王社と呼ばれている素盞鳴神社がある。この神社には有名な「蘇民将来」の逸話が残されている。
これは『備後国風土記逸文』に書かれたもので、昔、大神がこの地を通られたとき、日が暮れてしまった。
この地に蘇民将来と巨旦将来という兄弟がいた。兄の蘇民将来はとても貧乏だったが巨旦将来はたいへん裕福だった。ところが一夜の宿を乞(こ)われた大神に対して、巨旦は惜しんで宿を貸さなかったが、蘇民は心を込めてもてなした。大神は南海の四国を平定したのち何年か経って再び蘇民のところへ立ち寄った。そして大神は、蘇民に対して「茅(かや)の輪を腰に着けておきなさい」と言った。そこで蘇民がそのとおりにすると、その夜のうちに蘇民の家族以外の者はことごとく死に絶えてしまったが、蘇民の家族だけが生き残った。そのとき大神は「私はスサノオ命である。後世に病気がはやれば、蘇民将来の子孫だといって茅の輪を腰に着けておきなさい。そうすれば家族の者は疫病から免れるだろう」と告げた。
「茅の輪」くぐりの起源になったこの伝承は、古い来訪神の信仰や遊行神の信仰をベースに、ヤマタノオロチ退治の神話が変形したものと言われている。
この伝承で重要なことは、スサノオ命の勢力が遠く南海にまで及んでいること、スサノオ命が疫病を退散させる神であることだ。
備後地方に入ったスサノオ命は、天王社を過ぎると、さらに芦田川を下って瀬戸内海に入り、やがて古代備後最大の港である鞆の浦に着いた。
福山市鞆町には、祇園社ともいわれる沼名前(ぬなくな)神社がある。『備後国風土記』には「疫隈の国の社」として出ている。
その昔、神功皇后が朝鮮半島の三韓に出兵し、凱旋し帰る途中、鞆の浦に立ち寄って、腕に巻いた高鞆を奉納した、という伝説がある。鞆という地名が生まれたのはこの伝説による。今の祭神・綿津見命が祭られる前に、この地にすでにスサノオ命の信仰があり、それがために祇園社の名が残されたのだろう。
芦田川水系は古代の出雲と南海を結ぶメインルートだった。とくに中国山地の豊かな鉄が運ばれていく「たたら製鉄」の道でもあった。そして鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央にあって、内海を東西に結ぶ海上交通のメインルートの重要な潮待ち港であった。東西と南北のルートが交差する文化の十字路だったのである。
その十字路の「祇園社」にやがて全国の人々の目が注がれ、ひとたび疫病が流行ると町や村の人々はこぞってスサノオ命を祭り、疫病の退散を祈願した。その結果、「茅の輪」の神事が各地に広がった。
京の都に疫病が蔓延したため、僧・円如が。祇園祭で有名な京都の八坂神社に祇園社を勧請したのは、貞観18年(876)だった、という。それいらい京都の祇園祭は、山鉾を巡業する庶民の盛大な祭りとなって今に継がれている。
スサノオ命は、ついに疫病退散の神として京の都にまで進出することになったのである。
ここ、祇園という地名も鞆の浦の祇園社にちなむものでないだろうか。
そして、ここの素盞鳴神社も、鞆の浦から遠く京都を経由して来たことになる、なんとも不思議のものである。