

古代吉備王国は、吉井川、旭川、高梁川、芦田川の四大河川の下流に開けた広い平野の上に豊かな稲作農業を築くとともに、山地では恵まれた砂鉄資源をもとに多くの武器や農耕土木用具を生産してきた。海岸では土器による製塩業が盛んだった。瀬戸内海の制海権を掌握した吉備王国は海運王国でもあった。吉備王国を支えたこのような経済力が多くの人口を養い、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳などの巨大な前方後円墳を築造してきた。ヤマト朝廷の勢力に匹敵する力をもった5世紀の、このころが吉備王国の全盛時代であり、吉備の栄光の時代だった。
しかし、5世紀末から7世紀にかけて吉備はヤマト朝廷からの分割支配により、次第に崩壊の道を歩み始めることになるのだ。
巨大な前方後円墳はこのころから姿を消し、6世紀から7世紀にかけてはこれに代わる横穴式古墳群が吉備の全域に普及するとともに、いくつかの平野や盆地にはおびただしい数の大群集墳が造られるようになった。
岡山平野の周辺には100基以上の小型古墳が群集した地域が100カ所もある。近くでは、瀬戸内市長船の桂山南東麓には400基を数える小型の古墳がある。
竜之口山麓においてもその例外ではなく、小規模ながら古墳群が存在する。
吉備の群集墳の墳丘は、ほとんどが直径5〜6mから14〜15m、大きいものでも24〜25mの円墳である。そのうえ古墳の内部は一部に竪穴式石室があるものの、大部分は横穴式石室であるのが特徴。横穴式石室の奥壁の幅は1m〜2mのものが大部分で、箱形石棺や木棺が収められており、被葬者も1人ではなく2〜3人から5〜6人というのが普通である。副葬品としては須恵器を中心とする容器類が目立っており、次いで鉄製の武器類、耳飾りなどの装飾品が多い。
ここ谷口古墳群には発掘調査で7基が確認されており、そのうち6基が小円墳の横穴式石室で、石材抜き取りの盗掘にあっている。残る1基は石室破壊状態ではあるが、径10m、高さ1.5mの円墳、無袖式の横穴式石室、石室全長5m、玄室幅0.8mとなっている。