






竜之口城は竜之口山城とも天神山城ともいう。岡山市高島地区の北方、竜之口山塊の北端祇園地区にそびえた標高227mの峰が城山で、現在城跡に八幡宮を祀っており、西のふもとを旭川が流れ、天然林のしげる絶壁が清流に望んでいる。どちらから登ってもけわしく、戦国時代の山城の典型的な山容をしている。
山上には曲輪(くるわ)の跡の段形10段を数えるが、温故秘録にのせた竜之口城跡の古図を見ると総数七つの曲輪に分けてある。
頂上最高所の曲輪が南北10間、東西6間、社殿らしい建物があって「本城今は八幡の社有」と註している。ここが本丸であってここから東へのびた山の傾斜にしたがい曲輪を配置したもの、本丸のすぐ下の段が10間に10間の広さ、つぎが20間に20間、その下手に10間に6間ないし9間の幅をもつ段がある、なをこれらの曲輪から約2町ばかり南東にくだったところに東西30間南北28間の曲輪があって、西の麓の段原から谷間を登ってきた道と、東の谷を四御神方面から登ってきた道とがこの地点で連絡している。
現在段原部落からその北手の尾根づたいに本丸跡に登る道が通じているが、この道は八幡宮の参道として後につけたものらしい。また古図には本丸のすぐ西手から、電光形に断崖を下って川岸に通じる道があるが、今はほとんどわからない。
水の手は東の谷間の池にもとめたもののようであるが、八幡宮の社務所の裏手から約50mほどジグザグ道を下った断崖の岩間に良水の湧くところがあり、現在社務所で使う水はすべてここから汲み上げている。水量もかなり豊富で、竜之口城のかくし井戸はこれであったと考えられる。
城主の穝所(さいしょ)氏についてはいろいろ説があるが、上道郡史は旧記を参照して次のように述べている。
[文明年間この付近に穝所弾正左衛門と云う士あり、邑久郡福岡合戦の時赤松方に属し処々に戦ひたり、其末孫穝所治部元常城に拠りて松田左近将監元成が旗下に属し沼の宇喜多直家に抗せしかば、直家しばしば之を攻むれども城固くして抜くこと能はず。直家謀をめぐらし家臣丘剛介に命じて竜之口城に間者として入らしめ、隙をうかがひ元常を刺さしめ、機に乗じて之を攻めければ金城鉄壁なる竜之口城も主将を失ひたるため衆心離反し遂に落城したりと云ふ。]
「和気絹」などには数説をあげているが、城主が穝所氏であることに変わりなく、これを殺す手段が異なっているだけで、謀殺という点では同じである。竜之口山が険しいのと旭川の深淵を擁しているので、正攻法では落城させることが出来ず、陰険な手段で城主を先ず殺し、内部を混乱に導いて城を陥落させるという、直家得意の謀略戦にかけたわけであろう。