古  墳


  ■ 岡山県南部の古墳時代前半期首長墳分布図

[岡山県史参照]:〔海岸線は推定〕


 吉備は石器時代以来の数万年にわたる歴史を持つ国である。
最初に人類が日本列島に生活を始めたとき、ほぼ同じ頃、吉備の土地に人間の歴史が始まった。

 古代吉備の瀬戸内は当然のことながら現在とは一変する。
南部に広がる岡山平野も、地層や発掘調査によって、上図のとおり瀬戸内海であったとみることができる。この岡山平野は吉井川・旭川・高梁川の三大河川とともに、民族の営みと、そして吉備国の繁栄によって、永年にわたる土砂の自然堆積と、「たたら製鉄」による副産物の土砂、さらには海岸の埋め立てなどによって現在のように広大な岡山平野が形成されていったのである。

 このように長い吉備の歴史のなかで、政治的な芽生えが認められるのは、2、3三世紀頃と考えられており、ほぼ日本列島全体の体勢と一致している。
私たちが吉備文化と呼び、地域的な特異性を取り上げるのは、この2、3三世紀以降の古代文化を指しているのであり、岡山の古墳はすべて2、3世紀以降7、8世紀にかけての遺産である。

 奈良時代に出来上がったといわれる「古事記」や「日本書紀」などの古文献には、吉備の国の物語が数多く取り上げられている。それには、吉備の強大さをしのばす物語もあれば、人間的な哀しみや楽しみを共感させる物語も秘められている。このような風潮を背景として岡山の古墳はなりたっているわけで、その構造や外形、副葬品の数々の中に、古墳時代の人間の息吹が秘められている。
岡山の古墳は、その内容のすばらしさのせいか、古くから発掘の対象となり、貴重な資料の多くは県外に流出し、さらに、心ない人々による盗掘や貴重な史跡の破壊などによって、かえって地元の人々の目にふれることが少なくなっている。

 私たちの郷土、岡山には数多くの古墳が存在する。少しでも当時の息吹を感じ、古代を知る手がかりとしては古墳から読み取るしかありません。その古墳を知るために、以下に「古墳の基礎知識」を掲載しましたので参考となれば幸いです。

 古墳とは? 【古墳の基礎知識
 一般的に「古墳」といっても古墳時代に築造されたものばかりではない。
弥生時代にも弥生墳丘墓(やよいふんきゅうぼ)と呼ばれる大きな墳丘をもった墓がある。
古墳を知るうえで、考古学の方法で基準を定めてその新古を測る「古墳編年」がある。
かつては鏡、装身具、甲冑(かっちゅう)[鎧(よろい)や兜(かぶと)のこと。] などの副葬品に重点があったが、土師器(はじき)や須恵器(すえき)、埋葬施設の構造、墳丘の形、埴輪なども含めて行うようになってきた。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の編年、埴輪の編年というように要素ごとの型式変化も追求され、その組み合わさり方が古墳の編年基準となる。
専門的なことはさておき、古墳を知る上で、少し基礎的なことを知っておきたいと思う。
そこで、「デジタルフリー百科辞典」から古墳の基礎知識を掲載しました。
 古墳(こふん)とは

 一般には墳丘を持つ古い墓のことである。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。
日本考古学では、墓のあり方が社会のあり方を表していると考えられている3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別している。

 形・形状

 石室日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳・長方墳・双方中円墳・双方中方墳など、多くの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つある古墳もある。主要な古墳は、山が二つあるタイプの古墳であることが多い。死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。 前方後円墳の代表的な古墳は、大阪府堺市の大山(仙)古墳である。

 埋葬施設

 古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はない。
竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがある。
このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法である。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。

横穴式系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。横穴式石室、横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道(せんどう)部と埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部を持つ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼ぶ。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。

 薄葬令

 646年(大化2)に出された詔は、長文であり、内容から四部に分けられるが、その第一に述べられているのが、この「薄葬の詔」である。初めの部分は制定の意義を述べている。中国の文献を適当に混ぜ合わせて作文している。後半は、葬制の内容を具体的に記している。従来の墓の規模を遙かに縮小し、簡素化している。そこで一般にこの葬制を「薄葬制」という。この法令が出された背景には、「公地公民制」と関わりがあるのではないかという説がある。

   

薄葬令
「孝徳天皇大化二年三月癸亥朔
甲申、詔日、朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。無藏金銀銅鐵。一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉?。諸愚俗所爲也。叉日、夫葬者藏也。欲人之不得見也。廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。
夫王以上之墓者、其内長九尺、濶五尺。其外域、方九尋、高五尋。役一千人、七日使訖。其葬時帷帳等、用白布。有轜車。上臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方七尋、高三尋。役五百人、五日使訖。其葬時帷帳等、用白布。擔而行之。(蓋此以肩擔輿而送之乎)。下臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方五尋、高二尋半。役二百五十人、三日使訖。其葬時帷帳等、用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其内長九尺、高濶各四尺。不封使平。役一百人、一日使訖。大禮以下、小智以上之墓者、皆准大仁。役五十人、一日使訖。凡王以下、小智以上之墓者、宜用小石。其帷帳等、宜用白布。庶民亡時、牧埋於地。其帷帳等、可用麁布。一日莫停。凡王以下、及至庶民、不得營殯。凡自畿内、及諸國等、宜定一所、而使収埋、不得汚穢散埋慮々。凡人死亡之時、若經自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或爲亡人。藏賓於墓、或爲亡人、断髪刺股而誅。如此奮俗。一皆悉斷。或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。 縦有違詔、犯所禁者、必罪其族。」(『日本書紀』巻第二十五)

 東アジアでは

 日本列島で大規模な古墳が築造された3世紀中葉過ぎから7世紀後半にかけての時期には、朝鮮半島でも墳丘をもつ古墳が盛んに造営された。
高句麗で最大の古墳は中国集安(しゅうあん)の大王陵である。方形の積石塚で一辺63メートル、周りには一辺320メートルの土塁が巡らされている。また平壌の江西(こうせい)大墓は7世紀の壁画古墳として有名である。一辺60メートルの方墳。


古墳の形状について説明されているサイトをご紹介します。→  古墳の形(墳形)



★ 古墳発祥の地・吉備王国

 現在の岡山県と広島県東部にわたる地域は、広大な吉備世界を形成しており既に弥生時代から豊かな稲作農耕を背景に吉備世界に共通する文化が広がっていた。
その吉備世界の中心地にある岡山市高塚の弥生集落・高塚遺跡から古代中国の貨幣である「貨泉」(かせん)が平成元年一括して大量25枚も出土した。
(※高塚遺跡=平成元年岡山自動車道建設に伴う発掘調査で発見)
これだけ大量の発見は全国でも例のないことで、吉備世界は早くから中国大陸の影響を強く受けて発展きてきたと思われる。

 そんな吉備世界では弥生時代後期中葉における吉備独特の壺形土器(上東式土器)が出現し、また、これが変化発展して、吉備全域に共通する「特殊器台型土器」「特殊壺型土器」と呼ばれる特異な土器が誕生した。これと同時に、特殊器台型土器や特殊壺型土器を伴った盛土による大型の弥生墳丘墓が発達、吉備に新しい時代が到来したのだ。
(※後の古墳時代初期には大和にも影響をあたえている。)

 特殊器台型土器とその上に載せる特殊壺型土器は、葬送儀礼のとき死者に対して食べ物を供えるため用いられたものと考えられている。

壺と器台 特殊器台と特殊壺 特殊器台形埴輪
倉敷市上東(じょうとう)遺跡出土の台と壺。弥生時代後期中頃。器台の 上に壺をのせて安定させます。 新見市西江(にしえ)遺跡出土の特殊器台と特殊壺。弥生時代後期 末頃。特殊器台は大きく発達した 脚部(きゃくぶ)、口縁部(こうえんぶ) と装飾が多く描かれているのが特徴 です。 倉敷市矢部堀越(やべほりこし) 遺跡出土の特殊器台形埴輪。古墳時代初頭。口縁部が小さく なり、また脚部がなくなっています。装飾も少なくなり、後の円筒埴輪 の先祖にあたります。

 これは吉備の墳丘墓に特有なもので吉備全域に広がっている。最近、この吉備に起源を持つ土器が兵庫県播磨の赤穂市で見つかっており「吉備世界」の範囲が播磨の一部にまで広がっていたことを明らかにした。
そのうえ、弥生時代後期中葉から弥生時代末にかけての、吉備世界における弥生墳丘墓の発達は、他の地域にさきがけてこの吉備世界に政治的な権力社会、つまり吉備王国が形成され始めたことを示すものである。


★ 吉備王国の繁栄から衰退へ

 吉備は、古来、温暖な気候に恵まれた稲作の先進地で、特に吉井川、旭川、高梁川の三大河川の下流域は日本の代表的な米作地帯だった。中国山地は風化した花崗岩地帯で出雲と並ぶ砂鉄の大産地だった。瀬戸内海の沿岸地帯は日照時間に恵まれて製塩業が盛んだった。さらに瀬戸内海は海上交通のメインルートとして進んだ大陸文化が流入する主要なルートであった。その瀬戸内海の中心に位置する吉備は、人の物と情報が交流する文明の十字路だった。
このような豊かな吉備地方では、「津島遺跡」(岡山市)や「百間川遺跡」(岡山市)に見られるような進んだ弥生遺跡が濃密に分布している。

 岡山大学名誉教授の近藤義郎氏によると、これらのうち弥生時代中期から後期にかけて形成された57ヶ所の遺跡から、祭祀用の道具として使われたと思われる吉備特有の大型で華麗な特殊器台型土器と特殊壺型土器が発見されている。
この57カ所のうち20カ所の遺跡が2世紀後半から3世紀前半の弥生時代後期中葉に備中地域で築造された弥生墳丘墓といわれるものである。
例えば立坂(たてざか)墳丘墓(総社市新本)黒宮大塚弥生墳丘墓(倉敷市真備町)楯築(たてつき)弥生墳丘墓(倉敷市矢部)鯉喰(こいくい)神社弥生墳丘墓(倉敷市矢部)伊予部山弥生墳丘墓(総社市下原)鋳物師谷(いぶしだに)二号弥生墳丘墓(総社市清音)などが代表的。
その墳型は方形または前方後方型が多く、いずれも大和に先駆けて築造された。このなかで最大規模を誇るのが墳長80メートルの弥生墳丘墓の「楯築遺跡」である。
 楯築遺跡は吉備津彦命の温羅退治伝承の舞台の一つでもある。吉備津彦命が温羅の矢を防ぐ「楯」としたためこの名がついたという。もともと楯築神社があり、この神社のご神体の「亀石」には奇妙な弧帯文の模様が刻まれていた。近藤教授らの発掘調査により、この楯築遺跡は大変注目すべき遺跡であることが明らかになった。
弥生時代後期中葉の三世紀のこととして中国の史書『魏志倭人伝』に描かれた有名な邪馬台国の女王・卑弥呼の時代より、少し前に造られたと思われ、この楯築遺跡は、吉備地域での首長墓としては最も発達した巨大なものである。


 この墳丘(現在は向山)には16個の横穴式石室古墳が確認されているが、いずれも破壊されて痕跡はあるが原型を残すものはない。
楯築遺跡   この場所に楯築神社が存在していた

 吉備の中心部に築かれた前方中円後方型のような大型の弥生墳丘墓は、大和に先駆けて築造され、共通の祭祀文化をもつ広域の吉備世界を統括する王者が出現していたことを物語る。これが古代吉備の原点である。

 そして3世紀後半の古墳時代初期になると、吉備の備前地域には、岡山市津島本町の都月坂(とつきざか)一号墳(全長33メートル)・岡山市津島笹ヶ瀬のぐろ一号墳(全長45メートル)・岡山市四御神・湯迫の備前車塚古墳(全長48メートル)などの「前方後方墳」が相次いで造られた。
こうした中でこれらの古墳よりさらに古式の弥生時代末の「前方後円墳」が備中地域で突如出現する。総社市三輪で山の尾根に築かれた宮山古墳墓群の宮山古墳(全長36メートル)が築かれ、また備前との境の岡山市花尻では矢藤治山古墳(全長36メートル)が築造されていた。古墳でありながら埴輪ではなく、ともに宮山型或いは矢藤治型といわれる特殊器台と特殊壺を伴っていた。

 ここで特に注目されるのは、このうち宮山型の特殊器台と特殊壺が、これまで日本で最古とされてきた奈良県桜井市の「箸墓(はしはか)古墳」(全長278メートル)や奈良県天理市の「西殿塚(にしとのつか)古墳」(全長219メートル)から出土していることだ。
このことは、総社市三輪の宮山古墳は、小型の古墳でありながら弥生墳丘墓から古墳への移行、前方後円墳の成立を考える上で極めて重要であること。さらに言えば、前方後円墳はまず大和で誕生したのではなく、吉備で誕生したと考えられること。大和の巨大な前方後円墳は吉備の勢力が主導して築造したと考えられること。以上のことが推定出来るのである。

 当然のことながわ、古墳時代の先進地である吉備には、吉備国を代表するような首長(王者)がいたはずだが、『古事記』や『日本書紀』にはその首長については何らの記録もない。戦闘の様子も書かれていない。

 吉備津彦命が戦死して以後、吉備国は大和の大王権とは協調的の関係を維持しながら発展をつづけ、豊かな経済力を背景に五世紀代には全国4番目の規模を誇る岡山市の「造山(つくりやま)古墳」(全長350メートル)全国九番目の総社市の作山(つくりやま)古墳(全長280メートル)・これに次ぐ赤磐市の「両宮山(りょうぐうざん)古墳」(総長348メートル・平成15年の調査で二重の濠をめぐらせた畿内の大王墓に迫る古墳であることが明らかになった。)のような巨大な前方後円墳を築造した。
これらの古墳から吉備王国は、畿内の大王権に匹敵する政治勢力を築いていたことがわかる。
こうした吉備王国の強大化に脅威を感じた大和王権はやがて吉備王国攻略への機会を狙っていたのである。


   <岡山県の3大巨大古墳>

 国指定史跡 (1921年3月3日)  
  造山古墳 〔つくりやま 又は ぞうざん〕
全長360m ・ 高さ31m ・ 平面積約7.8ha
 造山古墳(つくりやまこふん)は岡山県岡山市新庄下にある著名な前方後円墳で、古墳時代中期に作られた。
全長360mの超巨大古墳で、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作っているばかりでなく、約9.6haの広大な墓域の中に築造されていることが、地割から復元できます。岡山県では1位、全国では仁徳、応神、履中天皇陵につぐ4番目の大きさである。また上位3天皇陵をはじめ近畿の巨大古墳が宮内庁により内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では最大のものであり、全国的に見ても貴重である。またこの大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる強力な王権があったとする見解もある。
また、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山は「ぞうざん」、作山は「さくざん」と区別して呼んでいる。

 造山古墳は、全国の多くの前方後円墳に見られるような、水を湛(たた)える周濠(ごう)は無かったと判断されますが、吉備地方でのそれまでのものとは規模と形態を異にしています。全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。

 この前方後円墳の墳丘は、三段に築かれ、その墳丘斜面には川原石の葺石(ふきいし)が葺かれ、墳丘には埴輪列が囲っている。埴輪には、円筒埴輪のほかに家・盾・靱(ゆき)・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も存在していることが、明らかとなっている。造山古墳、作山古墳とも発掘調査されていないため詳細は明らかではないが、断片的に出土している遺物から造山古墳が先に築造され、のちに作山古墳が構築されたと考えられている。


 平成17年度から、岡山大学考古学研究チームにより、3カ年計画で衛生利用による全国初の本格的はデジタル墳丘測量が行われている。  
山陽新聞 2006年10月16日記事から
造山古墳全景(南東側から)
前方部から後円方向を望む

 国指定史跡 (1921年3月3日)  
  作山古墳 〔つくりやま 又は さくざん〕
全長286m ・ 後円部径174m ・ 墳高24m ・
前方部長110m ・ 前方部幅174m
作山古墳(つくりやまこふん)は岡山県総社市南東部に位置する古墳。形状はつくり山と称されるほど雄壮で巨大な前方後円墳です。
古墳時代中期に造営された古代吉備王国の豪族の墓と思われる。全国で9位の規模の古墳で、岡山県下では造山古墳に次いで2位の規模である。 造山古墳も同様に「つくりやまこふん」と読むが、地元では作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と区別して呼んでいる。

独立した小丘陵を削り整形、加工したもので一部に後世の改変をうけているものの、三段に築成され各段には密接して円筒埴輪がたち並び斜面は角礫でおおっています。造り出しは北側には存在しますが対照的に南側にもあったかどうかは疑問です。外周には周溝がなく複数の残丘をのこすなど巨大な墳丘のわりには端整さを欠く面もあります。
古墳の規模が豪族権力の反映または象徴であることからすれば、本墳の被葬者が吉備に君臨した大首長であることが想像されます。
この古墳の築造は発掘調査がおこなわれていないのであきらかではありませんが、墳丘の形態や円筒埴輪の研究から5世紀中葉頃と考えられています。


作山古墳は、独立した丘陵の全体を利用して築いている前方後円墳です。大きく三段に整えられた墳丘を今も木立の中に見ることが出来ます。しかし、古墳が築かれた当初は、木々の一本もなく、各段のテラスには円筒埴輪が隙間なくめぐり、墳丘の斜面には石が葺かれていました。
古墳の大きさは全長が約286m、高さが後円部で約24mと、まさに山を作る=作山といえます。これだけの古墳を築くには膨大な労働力を必要とします。しかも、ただ一人のために築かれたお墓なのです。おそらく後円部の中央に手厚く埋葬されているでしょうが、発掘調査を実施していないのでどのような状況であるかは不明です。
古墳に埋葬された人物が、その権力を古墳の形や規模にあらわすものとすれば、作山古墳の被葬者は、前方後円墳で、全国的に見ても第9位であり、岡山県下第2位の規模となることから、強大な完力をもっていたにちがいありません、かつて古墳と呼ばれた、岡山県全域から広島県東部までをまとめて治めていた大首長であったと考えられ、全国第4位の造山古墳に続き、5世紀中頃の吉備に君臨した人物でしょう。
造山・作山古墳の畿内の大王墳にも匹敵する規模であることは、古墳のもつ勢力の強大さを示しています。しかし、畿内の巨大な前方後円墳のように幾重にもめぐる濠は築かれていないらしく、さらに作山古墳の南西側や南東側には大きく丘陵が残されていることなどから、なおも畿内の大王墓と吉備の大首長墓のもつ権力の差は大きかったものと考えられます。
 平成5年3月  総社市教育委員会
        【現地案内板より】
山陽新聞 2005年9月14日記事から
作山古墳全景(東側から)
後円部頂上から前方方向を望む
イメージ : 築造当時はたぶんこのような姿たったのであろう。
兵庫県神戸市垂水区  五色塚古墳   

 国指定史跡(1927年4月8日)
  両宮山古墳 〔りょうぐうざん〕
全長348m ・ 墳丘全長206m ・
水面上墳長194m ・ 後円部径116m ・
後円部高さ西裾部から23.9m ・
前方部長110m ・ 前方部幅145m ・
前方部高25.1m
 岡山県赤磐市(旧山陽町)和田・穂崎にある両宮山(りょうぐうざん)古墳は、備前地方第1位、 岡山県下でも第3位の規模を持つ前方後円墳で、国指定の史跡です。西高月古墳群の 主墳をなし、墳丘は全長約206m、三段築成で中央くびれ部の両側に造り出しがあり ます。後円部の北側が一部水田となっていますが、県下では唯一水をたたえた周濠を持っています。後円部に比べ前方部が発達した形式や造り出しの位置などから5世紀 後半の築造と推定されています。
平成15年、墳丘の外周を取り囲む二重目の周濠(しゅうごう)が存在していたことが町教委の発掘調査で確認された。

 一方日本書紀に、美貌があだとなって権力の渦に巻き込まれた悲劇の女性・吉備の稚媛(わかひめ)が登場します。吉備上道臣田狭(かみつみちのおみ・たさ)は、宮廷で自分の妻である稚媛の自慢をしました。「化粧をしなくても、こまやかに、さわやかにして、もろもろの好(かお)備われり。あからかに、にこやかにして、くさぐさの相(かたち)足れり」と。これを聞いた雄略天皇は、田狭を任那国司として派遣し、その留守に稚媛を妃にしてしまいます。稚媛には、田狭との間に兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)がいましたが、 雄略天皇と間に磐城皇子と星川皇子が生まれました。そのことを知った田狭は新羅と 組んで謀反を起こし、雄略天皇はその討伐に田狭の子供の弟君を派遣しますが、弟君 は百済で自分の妻である樟媛に殺害され、田狭も行方不明となってしまいました。
両宮山古墳は、大和朝廷に対抗していた吉備上道臣が、表向きには祀れない田狭と息子の弟君を両宮と称し、威信を懸けた巨大古墳で祀ったものではないかともいわれています。なお、田狭の謀反から16年の後、星川皇子は白髪皇子(後の清寧天皇)と皇位継承をめぐって争います。そして、諸国の貢ぎ物を集めた「大蔵」に籠城した吉備の稚媛、 兄君、星川皇子たちは、吉備上道臣らの援軍も間に合わず、白髪皇子の一派によって火を放たれ、燃えさかる蔵の中で悲壮な最期を遂げたと記されています。
「赤磐市文化財調査報告書」第1集 『両宮山古墳』 から
〔平成17年9月 赤磐市教育委員会発行〕
両宮山古墳全景
周濠南側から前方部(手前)

 大和王権は、五世紀末、吉備王国に対して様々な謀略と徴発を仕掛け、吉備の側はそれにまんまと乗せられ反乱を誘発させ、その鎮定を名目に大和王権は軍兵を差し向け、吉備王国を代表する下道臣と上道臣の首長を相次いで打倒し、吉備系皇子も焼き殺したのである。
吉備の上道臣・下道臣は、「臣」(おみ)の姓(かばね)を持つ名族だったが、これらの事件を機に大きな打撃を受け、吉備王国は確実に大和王権の支配下に組み込まれた。吉備の経済力の源泉となった豊富な砂鉄資源も大和に奪われてしまった。

 次いで、六世紀中葉、欽明天皇の時代の大和王権は様々な規制のもとに一層支配を強めていった。
そんな中、国造となった加夜・下道・上道の有力国造の墳墓が、こうもり塚古墳(総社市)箭田大塚古墳(倉敷市真備町)牟佐大塚古墳(岡山市)など巨大横穴式古墳である。
大和王権による厳しい締め付けのなかでも吉備王国は半独立国状態のまま依然としてかなりの勢力を保持していたと考えられる。


<岡山県の巨大石室をもつ3大石室古墳>

 国指定史跡(1929年12月17日)
箭田大塚古墳
〔やた おおつかこふん〕
円墳 ・ 径54m、高7m ・ 周溝あり
石室長 19.1m ・ 玄室長8.4m幅3m、高3.8m
この古墳は、県下三大巨石古墳の一つで、全国的にも有名です。 六世紀後半から七世紀の築造技術の進歩した時代に造られ、、 内部の石室は巨石を用いた横穴式で、入口の羨道とその奥の 玄室とからなっています。玄室の石棺三基の内二基は追葬された ものです。
明治34年の調査で、須恵器・土師器・刀剣・馬具・金環・勾玉等が 発見されました。これらは東京国立博物館と吉備寺にも一部保存 されています。 昭和58年に墳丘の調査によって、張り出しを持つ円墳と確認されま した。このような巨石古墳があることは、古代の小田川下流に大きな 支配力を持った豪族がいたことのあかしであり、これが下道氏の墓 とすれば、吉備真備公との関連も考えられます。
                【現地案内板より】

この古墳は、東流する小田川左岸、旧山陽道の北方およそ1Kmの小高い丘陵端部に位置する後期古墳で、こうもり塚古墳・牟佐大塚古墳とともに県下三大巨石墳の一つにあげられる。
1981年岡山大学考古学研究室によって、石室内の測量踏査、83年には真備町教育委員会の墳丘測量と古墳の範囲確認調査が実施され、ようやく古墳の形状、規模、築成の時期などが鮮明になった。墳形とその大きさについては、直径46mの円墳に、ほぼ西側に幅10~15m、長さ5~6mの張り出し部をもつ形、つまり造出付円墳との見解が有力になり、また幅4~6mの周溝を伴うことも明らかになった。墳丘はしかも三段築成で段には埴質で表面に荒いタテハケをとどめる円筒埴輪がめぐるが、葺石は認められない。

封土は幾分こわされているが、きわめて大型の円墳であったらしい。内部は長さ20mに近い最大級の両袖式横穴式石室古墳で、室内に三個の組み合わせ式石棺が安置されており、横穴式石室中の合葬の好例とされている。石室内を計ると奥壁の幅約3m、玄室の長さ約8.5m、高さ4m、羨道の長さ約10.6m、幅約2m、高さ約2mとなっている。奥壁には特に大型の石が使用されており、両壁面の石もかなり大きいものが積み上げられている。
遺物は東京国立博物館と地元に保存されている。東京国立博物館に所蔵されている資料としては、同館の目録に、柄頭1,馬具金具3、斑瑪瑠勾玉4、水晶丸玉4、玻璃小玉39、鉄鍬3、鉄具1としるされている。
この付近一帯から総社市にいたる地域は、大古墳群が知られており、箭田大塚古墳もそれらの一つとして取り上げられている。
清音付近から高梁川を西にわたり、小田郡にいたる路線は旧山陽道で、この路線に沿って流れている小田川は、井原市を越えて芳井町にいたっている。
箭田大塚古墳は、この小田川の高梁川に流入する出口をにぎっており、そのあたりはまた広い沖積低地となっている。この大塚古墳に埋葬された被葬者の勢力範囲は、すくなくともこの沖積低地全域に及んでいたはずで、一般にいわれるごとく、このあたりが下道氏の拠点として考えれられるならば、あるいは、奈良時代に勢威を張った下道氏の先祖と血縁の関係にあった豪族であったかも知れない。
この古墳を示す年代は後期古墳としても、さらに終末に近い時期のもので、ほぼ七世紀前後の吉備の国に、この古墳被葬者たちは生活し、その勢威をほこったことであろう。   
箭田大塚古墳全景
羨道(約10m:南向きに開口している)
玄室(石棺のほか木棺と、全3個)

 国指定史跡(1968年2月15日)
こうもり塚古墳
前方後円墳 ・ 墳長100m
石室長19.7m、玄室幅3.64m、高3.68m
この古墳は六世紀後半に自然の丘陵を利用してつくられた全長約100mの前方後円墳です。内部の石室は巨石を用いた横穴式石室で長い羨道とその奥の玄室とからなっています。玄室には家形の大きな石棺がおさめられています。この石棺は井原市野上町産の波形岩(貝殻石灰岩)を材料としたくり抜き式の石棺です。ほかにも陶棺や木棺がおさめられており、後期古墳に一般的な複数埋葬であったことがうかがわれます。
この古墳は大きな墳丘や内部の石室、石棺などにみられるように多くの労働力を集めることができた支配者層の墳墓であることを示しています。この古墳の出土品の一部は県立吉備路郷土館に展示されております。

                【現地案内板より】

古墳時代後期になると、前方後円墳の数は減少し、ほとんど大部分の古墳は円形の円墳となってしまう。円墳は前半の古墳にも数多く知られているが、吉備地方の後期の円墳には大型のものがかなり多く、当時の吉備の豪族がかなり強大な勢力をもっていたことを示している。
このように、円墳が主体となっていた後期古墳のなかにも、わずかながら前期の時代の名残である前方後円墳も若干あるなかで、このこうもり塚古墳などはその典型的なもので、黒姫伝説と結ばれ、別名を黒媛塚(くろひめづか)と呼ばれている。

黒媛は「古事記・下巻」にのっている吉備海部直(きびのあまのあたへ)の娘で、代表的な美女であった。
仁徳天皇の寵愛を受けたが、皇后の嫉妬のために吉備国に逃げ帰った。
ところが天皇は黒媛(くろひめ)が忘れられず、彼女を追って吉備国にやってきて黒媛と楽しい一時を過ごした。

その時の歌が、
「山方(やまがた)に蒔(ま)ける あお菜も吉備人と共にし採(つ)めば楽しくもあるか」

それに対して黒媛は、
「大和べに西風(にし)吹きあげて雲離れ退(そ)おりとも われ忘れめや」

吉備国の美女と仁徳天皇の美しいロマンである。
残念だが、これは物語の上の話しでこうもり塚古墳は黒媛(くろひめ)が生きた時代よりかなり後に作られている。

こうもり塚古墳全景(全体像がつかみにくい)
羨道(ほぼ南向きに開口している)
玄室(石棺は盗掘による穴があいている)

 国指定史跡(1930年2月28日)
牟佐大塚古墳
〔むさ おおつかこふん〕
円墳 ・ 径30m ・ 高8.5m
石室全長18.0m ・ 玄室長6.0m ・ 幅2.8m
高さ3.2m・ 羨道長12m ・ 羨道高2.1m  
牟佐大塚古墳は、県下三大巨石墳(総社市こうもり塚・真備町箭田大塚)の一つに数えられています。墳丘の規模は直径30m、高さ約8.5m。南側には横穴式石室の羨道部(せんどうぶ)が開口しており、石室内に入ることが出来ます。石室は花崗岩の巨石を用いた両袖式、羨道は玄室の約2倍の長さがあり、入り口に向かってやや開く形状に特徴が見られます。石室の全長18m、玄室の長さ6m、幅2.8m、高さ3.2m、羨道の長さ12m。全国でも十指にはいる規模の石室です。
 玄室内に復元長2.88m。幅1.6m、高さ1.5mの刳抜式家型石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)(貝殻凝灰岩製)が安置されています。四十数キロメートル離れた井原市浪形山から運ばれた石材です。
これら石室の構造や石棺などの特徴から、6世紀末に築かれた古墳と推定されています。
 この古墳は、山陽町と岡山平野、美作とをつなぐ交通の要衝に築造されているため、当地域の交通権を掌握し、広範は政治的まとまりを確立した有力者(国造層)の葬られている墓と考えられます。
 昭和5(1930)年、国の史跡に指定されました。
               【現地案内板より】

 旭川の東岸、岡山市牟佐の北側裾近くに、こんもりと盛り上がった一基の古墳が南へ口を開いている。玄室のほば中央には、大きな刳抜(くりぬき)の家形石棺が据えられている。入り口側の妻の部分にぽっかり穴があるのは、後世の心ない人の仕業である。
この牟佐の大塚は、岡山県下でも巨大な後期古墳の一つとして常に引き合いに出される古墳である。
このクラスの古墳は県下で、備中の「こうもり塚」「箭田大塚」とならんで、三基が知られている。いかに後期古墳の数が増し、県下では万を数えようとしていても、この巨大さは他の追従を許さない。
かつて四、五世紀に吉備の平野に君臨し、巨大な盛土の古墳を築いた豪族の後裔(こうえい・子孫)が六・七世紀になればどのように変わっていったか個々の系譜をたどってみるしかないが、この牟佐の大塚の主が赤磐市(旧山陽町)に威容を示した両宮山古墳の主と幾世代かをへだてながら、全く無関係であるとはとうてい考えられないのである。かつてのように古墳は平野の真ん中に、支配地をにらむような形で造られなくなったが、この牟佐の地は、東の旧山陽町の平地がせばまり、両側から山がせまり、西では岡山の平野に通ずる旭川に面した当時としては交通の要とも思われる地点であり、ここにわざわざ他の数多い後期古墳より独立して、この巨大な横穴式石室を築いたことには、当時としては重要な意味があったと思われる。内に石棺を納めていることも、この古墳の主の身分を思わすものであろう。この古墳こそ、かつて吉備前の国といわれたこの地方の王者の後裔(子孫)の墓と考えて間違いないであろうし、六、七世紀に大和朝廷にはより強度の服属を強いられながらも、広く備前一帯で最も権力を有した者の墓だったことも間違いないのである。
牟佐大塚古墳全景
羨道(開口は南向き)
玄室(石棺は盗掘により穴があいている)



 古墳時代後期になると、仁徳天皇陵古墳や応神天皇陵古墳、吉備でいえば造山古墳のような巨大な前方後円墳は陰をひそめる。それに代わっておびただしい群集墳が築造される。

 この、おびただしい数の群集墳が造られていく古墳時代後期のなかで、これらの巨大石室古墳は、ずば抜けて大きな規模を誇っているのである。
 これはいったい何を物語るのか。
ヤマト朝廷が吉備王国を制圧するため全国的な統治機構を整え、とくに吉備においては「白猪屯倉」や「児島屯倉」を設け、吉備の中枢にクサビを打ち込んできた。しかし、吉備はヤマト朝廷に完全に服従したのではなかったのである。吉備の王者は、富と権力を外にむかって誇示する巨大な前方後円墳こそ造らなかったものの、古墳の内側なる横穴式石室の構築に情熱とエネルギーを注ぎ、そこに吉備の王者の力と誇りを示そうとしたのではないか。吉備にはまだまだ巨大な石室古墳を造るだけの実力は充分あった、と考えることも出来る。
 ヤマト朝廷のなかで最高の実力者であった蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。その石舞台古墳に匹敵する箭田大塚古墳は、吉備の大首長の墓と思われる。当時の吉備は上道氏、三野氏、加夜氏、下道氏、笠氏ら各地の大首長によって構成された連合政権で各氏が持ち回りで大首長をつとめてきたが、箭田大塚古墳に眠る大首長の、こうした吉備の連合政権の代表だった吉備下道氏の墓と思われる。

 吉備の後期古墳文化のなかで、極めて特異なものの一つに「陶棺」(とうかん)がある。
吉備の古墳文化を特徴づけるものとして、これまで前期の古墳として前方後方墳盛期の古墳として巨大な前方後円墳後期の古墳として巨大な石室古墳をあげてきた。その巨大さに特徴があるといえば言えるのだが、前方後円墳が姿を消し、群集墳と横穴式石室が各地に造られる古墳時代後期の六世紀中頃になると、吉備に突如、土師器による陶棺が普及し始めるのだ。それも吉備の全域ではなく、備前から美作の地域にかけて集中的に造られるのである。一つの石室の中に複数の陶棺が置かれていることが多く、家族墓的な性格が強いとされており、一つの石室に家族や近親者が次々と追葬されたことを物語っている。

 吉備の国を中心に広がった古墳時代後期の「陶棺」(とうかん)。この陶棺は六世紀中頃から造られ始め、七世紀の終わり頃には急に小型になり、同時に吉備の古墳も姿を消すのだ。
岡山県中央町(現美咲町)唐臼や倉敷市広江の古墳時代終末期の小型横穴式古墳の中から、やっと子供が入れるかどうかという小型の陶棺が相次いで発見された。足の数も四本か六本という小型のもの。同じような小型陶棺が美作南部から備前・備中・備後の南部の地域でも発見されている。形は、土師器系陶棺であれば亀甲形、須恵器系であれば切妻形か四注家形である。大型陶棺とまったく同じ形をしており、そのミニチュアというわけだ。
 しかし、これらの小型陶棺に葬られたのは子供ではなく、火葬にされた大人の遺骨が納められているのが普通である。つまり、小型の陶棺は火葬遺骨蔵器だったのだ。

 六世紀の中頃日本に導入された仏教は、七世紀に入ると全国に広がり、あわせて火葬の制度も全国に広がり始めた。吉備でも火葬の制度を受け入れ、荼毘(だび)にふされた骨は器に入れて納めることになった。だが、その器の形は、これまでの伝統的な棺(ひつぎ)の陶棺の形を捨て去ることができなかった、ということだろう。
仏教思想による火葬という新しい葬制の風習が広がるなかで、古い土葬の陶棺に固執した吉備の人々の戸惑いが目に見えるようだ。しかし、やがてその小型陶棺も吉備の地から消えていく。


 仏教という新しい思想の広がりは、死後の世界に対する観念を新たに大きく変化させた。そのことは古墳そのものを消滅させることにもなった。そして、仏教思想の普及は古墳に代わって新しく「仏教寺院」を登場させることになる。
古墳の消滅をもたらした最も大きな原因は、「大化の薄葬令」に見られるように、ヤマト朝廷が巨大古墳の築造を抑制する措置をとったこと、これとともにヤマト朝廷による全国的な支配体制が確立されたことによる。
こうしたなかで古墳は消滅したのである。
古墳の滅亡とともに古代吉備王国の栄光の歴史もまた終わったのだ。

 こうして日本に導入された仏教は、聖徳太子の熱心な仏教への帰依と相まって、ヤマト朝廷公認のもとに畿内を中心に急速に広がった。日本最古の本格的な仏教寺院「飛鳥寺」は、高句麗の資金的な援助や百済の技術者たちの指導のもとに建てられたと『日本書紀』は記している。
仏教は日本を統治していくために極めて有効な政治的なイデオロギーだったのだ。

このような仏教が吉備にも伝えられて、七世紀中頃になると古墳に代わって高度な技術を必要とする絢爛豪華な古代寺院が建設され始めた。甍(かわら)を並べたきらびやかな仏教寺院に人々は驚きの眼を見張ったことであろう。

 吉備で最初に建立された寺院は、高梁川西岸にある岡山県総社市の秦(はた)廃寺だ。
この地方に住み着いていた新羅系渡来人の秦氏の協力を得て、朝鮮半島の高句麗や百済の影響を受けた中央の仏教文化を、ほかの地域にさきがけていちはやく摂取し建立したものと思われる。
この秦廃寺跡には巨大な塔の心礎が残されており、この跡からは「素弁蓮華文軒丸瓦」といわれる飛鳥様式の瓦が出ている。これと同じ飛鳥様式の瓦が出土している吉備地方の古代寺院としては、総社市の宿寺山廃寺、倉敷市真備町の箭田廃寺、岡山市の賞田廃寺などがある。

 賞田廃寺は備前で最も古い仏教寺院であることが発掘調査によって明らかになった。近くには、奈良明日香村の岩屋山古墳に似た七世紀初頭の唐人塚古墳があり、賞田廃寺は、この古墳の被葬者の子孫が建立したものと見られる。







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